2005年 伊藤千代子
生誕100年記念事業の記録


墓前・碑前祭


写真 墓前・碑前祭(顕彰碑前に集まった大勢の参加者)顕彰碑前に集まった大勢の参加者
  •  伊藤千代子生誕100年記念事業の墓前・碑前祭は、17日午前11時から諏訪市湖南の南真志野で、地元の諏訪、長野県をはじめ、全国各地から約200人が参加して行われました。
    墓前・碑前祭は、地元共産党市議会議員の藤森守さんの司会により進められ、土屋文明さんの二女の高野うめ子さんが、参列者を代表して、文明直筆の句に彫り直された顕彰碑へ献花して、始まりました。
  •  関勘正「伊藤千代子こころざしの会」会長は、「戦前のような時代にしないよう努力することが、千代子への慰霊になります。」と開会あいさつをしました。
     木島日出夫実行委員長は、「千代子生誕100年は、侵略戦争と暗黒政治の過去を回顧するだけではありません。今、侵略戦争の事実をねじ曲げ、再び戦争の道を歩もうとする動きが強まっています。千代子の意志を継ぐことは、戦争と暗黒の時代への道を再び歩まないことです。千代子生誕100年に改めて誓い、憲法改悪反対の運動を強めましょう。」と訴えました。
  • 写真 あいさつする関勘正「伊藤千代子こころざしの会」会長
    あいさつする関勘正
    「伊藤千代子こころざしの会」会長
  • 写真 あいさつする文明さんの長女草子さん
    あいさつする文明さんの
    長女草子さん
  •  土屋文明さん長女の小市草子(かやこ)さんは、「父、文明の自筆の句に代えられ、大勢の人が集まり感激しています。皆さんの千代子さんへの気持ちが、続いてほしいと思います。」とあいさつをしました。
  •  千代子生家の伊藤善知さんは、「全国からこんなに大勢の人が千代子サ(伊藤善知さんは、慈しみの気持ちを込めて『千代子サ』と呼んでいます。)を偲びに来ていただいて本当にありがたいことです。」とお礼の気持ちを述べました。
  • 写真 お礼の気持ちをのべる伊藤善知さん
    お礼の気持ちをのべる伊藤善知さん
  •  山田勝文諏訪市長、宮坂勝太諏訪市議会議長のメッセージが紹介され、上田秀昭副実行委員長の閉会あいさつで幕を閉じました。
     「在京、千代子の会」の皆さんは、朝早く東京を大型バス2台、マイクロバス1台で出発しましたが、高速道路の渋滞のため、遅れて到着となり、墓前・碑前祭には参加出来ませんでしたが、やはり遅れて来訪された澤地久枝さんと会うことが出来ました。
     この日、伊藤千代子の眠る地においでいただいた方は、約350人となり、過去最高となりました。
記念講演会


     伊藤千代子生誕100年事業のメインとなる記念講演会は午後2時から講師に作家で「9条の会」の澤地久枝さんを迎え「証言者としての伊藤千代子」と題して話されました。せつせつと語る澤地さんの言葉は1000人を越す聴衆のなかへ共感となって広がっていきました。
◇感想◇伊藤千代子にこだわって…
  • 写真 せつせつと語りかける澤地久枝さん
    せつせつと語りかける
    澤地久枝さん
  •  「千代子の眠りが、安らかであるようにするには、どうすればよいのか。今、生きているわたしたちへの問いかけとして、投げかけられている」と話す澤地さん。
     澤地さんは、「千代子さんが、もし生きていらしたら、100歳の気概を持って《いったい何をしているの。私が生きた頃の日本より、もっとひどい》と言ったと思う。」と、この国の現状を痛烈に批判しました。
  •  印象深かったのは、獄中での、千代子の心情に触れた部分でした。  はじめに、祖父母のこと、夫・浅野晃のこと。――澤地さんは、「さまざまな思いに責め立てられながら、ともかく、自分を考え、自分よりもっとひどい目に会っている人たちを励まそうというのが、千代子の獄中を生きてゆく目的だった」と話されました。
     つぎに、千代子を追い詰めたものは、何か? 澤地さんは、「夫の心変わりだけが千代子を追い詰めたとは思っていない」と述べ、「いろいろな要因が錯綜し、神経が狂うこともある。シラミは付くし、ムギ飯と栄養のない薄い味噌汁という獄中生活の中で消耗していった。 結核が進行したのではないか。一人で孤立させられ、内部崩壊していくということがある。現在の私たちにも、それはあると思っている」と、自省をこめて指摘されました。
     「こんなに大掛かりに郷里の人たちが行事をし、千代子の人生を掘り起こしている。千代子は幸せ者だ。」と述べ、「千代子は死んだけれど、ふるさと・諏訪で生きている。」とご自身の思いを熱く語られたのを聞いて地元の責任の大きさを痛感しました。

    (K・I 記)

伊藤千代子生誕100年記念事業を終えて


実行委員長 木島日出夫

  • 写真 墓前・肥前祭であいさつする木島日出夫実行委員長
    木島日出夫実行委員長
  •  「あんな大きな会場を借りて大丈夫だろうか。」「ガラガラだったらどうしよう。」
    伊藤千代子生誕100年記念事業を計画し、記念講演会の会場に1000人以上も入れる諏訪文化センターを決めたときから、このことが心配で頭から離れなかった。
     こんな思いを抱きながら、17日朝、墓前・碑前祭の行われる南真志野に向かった。会場について驚いた。北海道からの参加者がもう見えている。かつて日本共産党の衆院選候補者として何度もたたかった外尾静子さんがいるではないか。「昨日.飛行機で千歳から松本に来て、一泊して来たのよ。」頭がさがる思いだった。
  •  参加者の中に、大阪から駆けつけた元自由法曹団団長の石川元也弁護士を見つけた。石川さんは、旧制松本高等学校卒の長野県人だが、弁護士活動は大阪を中心に関西地方だ。伊藤千代子との接点がにわかには思い当たらない。久しぶりの再会に記念写真を撮る。
     東京から来る予定の皆さんが、交通渋滞にまきこまれ遅れるとの報が入る。しかし、墓前・碑前祭の狭い会場は、全国各地から、県下各地からの参加者でいっぱいになった。
     この時点で、朝からの私の杞憂は消し飛んだ。
  •  墓前・碑前祭が終わって、参加者の皆さんが引き上げてしばらくして、澤地久枝さんがこられた。予定はなかったのだが、講演前に、どうしても千代子の墓にお参りしたかったのだろう。 しばしの間の合掌の後、墓石に手をさするようにしながら「いつ、どなたが建立したのでしょうか。」「墓石に刻み込まれた一つ一つの言葉が大事なのよ。」と言われた。
     旧憲法下の昭和史の埋もれた歴史の真実を堀り起こし続ける澤地さんの真骨頂を見る思いがした。
  • 写真 木島実行委員長と顕彰碑を見る澤地久枝さん

    木嶋実行委員長と
    顕彰碑を見る澤地久枝さん

  •  会場いっぱいの参加者で埋まった澤地さんの記念講演。「千代子は、短い生涯で不幸だったが、幸せな人だと思う。このようにたくさんの人が千代子を思い、こころざしを受け継ごうとしているのだから。」澤地さんの言葉に共感する。  伊藤千代子100年記念事業は、多くの参加者の皆さんの胸に「千代子のこころざしを今に」との思いを、新たにきざんだことと思います。
     実行委員長として、この事業成功のために労をとられたすべての皆さんに心からの感謝を申し上げます。
パネル展


  • 写真 パネルを熱心に見入る沢山の方々
  •  伊藤千代子の生涯を写真で紹介する「パネル展」は、メインの会場となる諏訪市文化センターの第一集会室で午前9時から午後5時まで行われました。
     生涯にかかわるもの、 治安維持法にかかわるものを主体に150点の写真・資料などが展示されました。
  • 沢山の方が展示場を訪れ熱心に、千代子の短かかった生涯に思いをはせ、治安維持法の恐ろしさを再確認されたことでしょう。
     併設した「交流の広場」でも一休みされながら、語らいが続いておりました。
パネル展を準備して


  • パネル展の準備作業を時系列的に振り返ってみます。
    1.展示会場となる第1集会室を3回下見して必要な寸法を計測して縮尺図(25分の1)を作成しました。
    2.会場は「パネル展示」と「交流の広場」を併設することになりました。
    このためパネルボード間の通路は極力広く、交流の広場も極力広くの条件からパネル枚数の絞り込みが必要となりました。
  • 写真 併設された「交流の広場」ではあちこちに歓談の輪が・・

    併設された「交流の広場」では
    あちこちに歓談の輪が・・

  • 写真 沢山の人達に混ざって澤地さんと藤田さんも

    沢山の人達に混ざって
    澤地さんと藤田さんも

  • 3.縮尺図上で展示用ボード、机などのレイアウトの検討に苦労した。
    4.会場内の仕込みは前日午後6時から9時の間にすべて完了しなければならないことになり、誰でもが作業可能となるような資材が必要となりました。
    5.準備に大勢の人が参加してもらうことができ短時間にすべての準備が完了した。
  • 6.当日は予想を遙かに超える多くの方が見学され、準備をした私達の胸は驚きと感激で一杯になりました。
    澤地久枝さんも藤田廣登さんと見えられ熱心に見学されていた。
    会場内の通路を広く設定して正解であった。

    (後藤 記)

記念誌


  • 伊藤千代子こころざしの会では、参加者の皆さんに千代子の生きた軌跡や顕彰のいきさつをより詳しく知っていただくため、『今、新しき光の中へ』(第4号・伊藤千代子生誕100年記念号)を発行、当日会場で販売しました。
    編集前記 & 編集後記
    ”たかが記念誌されど記念誌”今回、記念事業のスケールが大きくなったことにより、記念誌関係も波乱含みのスタートとなりました。
      2月13日の第4回実行委員会においていろいろ注文・要望等が出されました。
    ・発行主体(発行元)の名としては、実行委員会の名は使わず、「千代子ここ ろざしの会」とする。
    ・発行時期は、7月17日、講演会当日とする。
    ・従来の1・2・3号からも一部再掲載して、千代子顕彰碑建立および顕彰運動 の経緯や概要がわかる内容に。
    ・講演会参加者が誰でも購入できるような頒布価と大衆性ある編集で。
        (500円頒布価を目標に。カラーの1枚くらいは入れたい)
    ・有名無名を問わず大勢が参加・登場し、親しみを感ずることができるものに。
      等々大変な注文を受け、編集委員会としてはあれこれさ迷いながら、これら の注文に応えるべく努力をしてきました。
     いずれにしても、この時期これまでの顕彰運動を総括的にみる、というふうに受けとめ、運動にかかわってきた人々を再確認するなかで、 今誌上で顔合せできたらいいな、ということで進めました。勿論故人となっている人々も含めてのことですが。
     もとより、制約された記念誌のことですから、十分なことはできないことは分かっています。そんななかで、一番意を配ったことは、 近藤芳美氏の登場でした。たまたま今年に入って朝日新聞の短歌選者を引退するというニュースをみていましたので、この機会をのがすまいと接触を試み、 しかし残念ながら高齢にて視力に難が出ているにより、読み書きが極端に悪くなっておるとのことでした。電話によるやりとり3回ほどのなかで、 かつての記述・写真等の転載に快諾をいただけたことは幸いでした。
    藤田廣登氏には、千代子研究の到達点と課題というテーマで要約的にまとめていただきました。 
    なお、毎度のことながら、発行日へむけて、あわただしい作業となりましたので、初歩的なミスなどいろいろお気づきになろうかと思いますが、ご寛容のほどお願い申し上げます。
    無理な日程で寄稿いただいた方々には厚くお礼申し上げます。
    全国各地で活動展開が活発になっています。それらが十分反映されていませんが、この記念誌は諏訪における顕彰碑建立の流れを主流としているにつき、ご容赦いただきたく、 今後の各地における独自の取組みに大いに期待したいと思います。
    なお、記念誌の内容その他感想・ご意見お寄せいただければ幸いです。
    『今、新しき光の中へ』(第4号・伊藤千代子生誕100年記念号)

    (記念誌委員会責任者田中)

三首碑文が直筆のものに


  • 伊藤千代子生誕100年記念事業の一環として、顕彰碑の土屋文明詠の三首の短歌碑が直筆のものに改装お披露目されました。これは文明さん長女・小市草子(かやこ)さんのはからいによるもので、千代子碑は特異な存在感を示していくでしょう。

さまざまな余韻・・・

  • ―伊藤千代子生誕百周年
          記念行事に参加して―

    外尾静子

     雲の上を飛んでの旅は2時間足らずだが、伊藤千代子の故郷諏訪での生誕百年の行事は翌日7月17日、航空便は1便だけだから前日には松本までは着いていなければならなかった。
  • 写真 全国交流会で挨拶する外尾静子さん

    全国交流会で挨拶する外尾静子さん

  •  17日は7時に(松本駅前の)ホテルでの朝食、8時の列車に乗って諏訪へ。車窓から眺める信州の風景は北海道とは違う狭い田んぼや畠が山里の温かさと懐かしさを感じさせる。稲もとうきびも北海道よりはやや早く成長していた。・・・白やピンクのむくげの花がもう咲いていた。千代子が育った頃の諏訪の風景はどんなだったのか。岡谷の駅の辺りだけはむかし女工が働き、絹の工場で栄えた街らしく見えた。
     上諏訪駅で降り、タクシーで現地が用意してくれていたホテルに寄って荷物を預け、会場の諏訪市文化センターに向かう。・・・パネル展は、千代子の幼いときからの成長の記録、土屋文明の写真や歌、人々から寄せられた千代子への思いを記した作品などが飾られている。伏木田土美さん、高橋篤子さんの詩があったのは嬉しかった。私も色紙に書いた短歌を持ってくればよかったな、などと思った。
     午前の行事は伊藤千代子の墓参と千代子顕彰碑前祭であった。諏訪市湖南南真志野の霊園までの坂道を車で行くと、テント張りの中に接待所があり実行委員会の人達が立ち働いていた。受付を済ませ椅子にかけて一休み。冷たい麦茶ときゅうりの浅漬けがおいしかった。木島日出夫さんと久しぶりに会う。・・・顔見知りの赤旗カメラマンや親しく声をかけてくださる人々にも会えて懐かしかった。
     霊園は急な坂道を登った山際に沿ってある。・・・千代子の墓は伊藤家の墓と並んで建っている。その墓をずっと守ってこられた伊藤善知さんが東屋で椅子にかけておられた。私はご挨拶を申し上げた。善知さんは「わざわざ北海道からお出でなさって」と何度も頭を下げられた。実直なお人柄がにじみ出ていた。
     大勢の人々に並んで順番を待ち、私も線香を手向けて心の中で語りかけた。「北海道の苫小牧にあったあなたの獄中最後の手紙が初めて公開されたのですよ。記念の集いも成功させることができました。今日はその苫小牧から三人で参りました」。
     伊藤千代子顕彰碑は少し離れた墓の並びの丘に・・・どっしりと建っていた。また、これも横沢さんが心してデザインされた土屋文明の歌三首が、直角三角形の内側に小ぶりの三角形の歌碑として立体的にはめこまれていた。そしてその文字は生誕百年に当たり、これまでの活字の文字から文明直筆のものに改めて刻まれていた。少し乱れた筆勢そのままが、文明の千代子を愛惜する思いを滲ませているように私には思われた。
     土屋文明の次女高野うめ子さんが大きな花束を献花し、長女小市草子さん・・・がしっかりと挨拶をなさったのが私には印象深かった。人々は急な斜面に腰を下ろしたり、支え合って立ったりしながら、百人以上はいたろうか。
     眼下に諏訪湖が海のように広がり、諏訪の街並みのむこうに霧が峰が薄く霞んで見え、信濃の山並が連なっている。千代子さんは、この故郷の景色の中で今はふるさと人の敬慕を集め、全国各地から訪れる人々を迎えて新たな勇気と励ましを与えていてくれるのだ。
     伊藤千代子研究はこれまでも、またこれからも進むであろう。あれこれの異説に論議が交わされることもあろう。それはそれで大切なことではあるだろう。ただ私は、伊藤千代子が生き抜きたかったであろう短かった命を捧げて守り通した志が、ここを訪れるすべての人々の胸に蘇り、あるいは深くうたれ、新しい光の中へ高き世をめざして歩ませてくれることが尊いのだとの思いに包まれていた。
     ピストン輸送で文化センターへ運ばれ、昼食休憩をとった。・・・私はお弁当をいただきながら、実行委員の方たちと歓談した。諏訪の女性の方たちはほんとうに細やかな心遣いをしてくださった。・・・お茶のほかに綺麗な紫色のうっすらと甘い飲み物をいただいた。「おいしい」と褒めると、それを作った方が出て来られて「紫蘇の葉で作ったものです。作り方はこうしてこうやって」と教えて下さるのだ。信濃の言葉で親しみ深く話されるのが嬉しくて私は熱心に聞いた。実行委員の方々は60人と聞いたが、この催しがこうした女性を含むたくさんの方々に支えられていることに感激した。
     文化センター大ホールは、1000人以上の人が入って満席だった。・・・澤地久枝さんの講演は約2時間、飽きさせないで聴衆を引っ張っていく。たくさんの材料を次々と繰り出して、時には自分の体験をリアルに語り、思いをぶっつけ、時にはむごい戦争映画のシーンのように聴衆に映像を結ばせ、心を凍らせたり、時には今の政権与党やそれにおもねる政治家たちを突き刺して共感の笑いを誘ったりした。
     結局は、伊藤千代子の志を今に受け継ぐ道は、自分の信念を曲げず、相手の心を考え、若い人々と仲良くすること。一人ひとりが核になり、核を拡げよう。改憲・反動勢力に負けるわけにはいかない。それが千代子の願いだったのだから、と結ばれた。
     夜のレセプションは大きな温泉ホテルの宴会場だった。・・・レセプションは300人近くはいたろうか。・・・指名された私は、千代子最後の手紙がようやく北海道の苫小牧で公開されたこと、記念の集いを成功させ、苫小牧から三人で来たことを話した。・・・終わると見知らぬ人、思いがけない懐かしい人が次々と声をかけてくださった。・・・三人はそれぞれに過ごして「ふるさと」の全員合唱でパーティは終了した。
     ・・・今日はよく動き、たくさんの人々に会い、多くのことが心に刻まれた。遅くなって地下にある小さな温泉浴場に浸かって、深く眠った。
     ・・・(翌日)私たち三人は・・・お任せコースで見学に出かける。連休最後の快晴の日とあって、見どころへの道はすでに渋滞が始まっていた。・・・霧が峰高原は折りしもニッコウキスゲの花盛り、夏の日差しを受けて橙色の花が精一杯に開き、高原を渡る風に一斉に揺れるさまは見事だった。・・・
     私たちは渋滞を避けながら下って、千代子の生まれ育った地へ案内された。岩波家の祖父母に育てられた千代子をしのぶ。諏訪大社は全国に広がる諏訪神社の総本社とあって、いかにも古めかしい。
     ・・・静岡、京都の方々と別れ、三沢実さん、伊藤善知さんが松本空港まで送ってくださる。・・・パーラーで冷たいものをご馳走になり、お別れして機上の人となった。

    ▼(外尾静子さんのエッセー「諏訪への旅」から概要を紹介させていただきました。)


  • 澤地さんの話を聞いて

    後藤サキ子

     話を聞いているうちに、北満の零下40度摂氏のくらしをまざまざと思い出しました。
    看護婦だった私は、北満の斉斉哈爾(チチハル)満鉄病院に昭和17年に行きました。昭和20年8月8日飛行機の爆音を聞いて、窓を開けてみました。 その時、いきなり「ドカン」と爆弾が落ちてビックリしました。病院の指示で軽症患者を連れてNS(看護婦)がついて引き揚げていき、残された者は2人のNSと重傷の人だけ。 防空ゴーを行ったり来たりしていたが、そのうちもう防空ゴーに行くのがいやになり成り行きに任せました。私たち満鉄社員は、会社で引き揚げ列車を準備したけど、 軍がその列車で家族とともに引き揚げたとのことで、民間人は残されてしまいました。
    そのとき残された患者は、行く所もなく、大勢の人と一緒にいると感染の危険(開放性結核)もあるとの理由で、病院側の指示で毒薬注射をする事になりました。 私はそんな事はイヤだと思っていましたが或時、GKさんが「オレ血を吐いたよ。注射をしてくれよ。」と言ったので、来ていた医長に報告すると「これをやりなさい。」 と麻酔薬をつめた注射器を渡してくれました。私は意を決して「今日は血管注射だからね。」と言って針を刺しました。半分くらい液が入ったときソッと顔を見て急変した と感じそのまま針を抜いて詰め所に飛んで帰り、他のNSに行って確認してもらいました。その時は、動転していて自分が何をしたのか判りませんでした。そして8月15日 の天皇の放送を聞いた後で、死後の処置をしましたが、今考えてもやはり同じ日本人を殺してしまったのだ。無惨な戦争のタメとはいえ、自分のやったことが残念で、残念でなりません。 澤地さんの「多くの人が古里から遠く離れた戦地で人知れず死んでいった。それが日ごとに忘れ去られ、そのしかばねを踏みにじるように再び戦争のできる国に変えようとしている。」
  • 写真 澤地さんと語り合う後藤さん

    澤地さんと語り合う後藤さん

  • との話を聞いて、こんな風になくなった人が何人もいるのに言いたくないと思い言えなかった事、この人達はその最期を家族とも会えなくて家族はどのような思いで60年経ったかと思うとやりきれなくなりました。
    無惨な戦争を再び起こしてはなりません。
     講演の後、私は控え室で澤地さんと面会することが出来ました。同じ満州で苦労をしたという思いが胸の内にわき上がる熱いものを抑えることが出来ませんでした。


  • 千代子探索事始めの頃のこと

    塚田一敏

    1.
     物故者の墓参を始めたのは1963年の盆と秋の彼岸からです。その年、映画「日本共産党の四〇年」の上映運動があり、諏訪ではオデオン座で開催されました。その折、国民救援会発行の「解放人士(無名戦士)の名簿」が公表されて、諏訪市では村上多喜雄、平林セン、伊藤千代子の名前が掲載されていました。
     田中源太郎市議の発議で、(この年、金井さんも初当選)議員団の費用で線香と若干の手土産を持参して、墓参することにしました。戦前からの前記3人の他、大和の宮坂さん宅にもお邪魔したと思います。
    2.
     最初は大変でした。村上多喜雄は源太郎さん達の同級生ということで家はすぐわかったのですが、義妹のタキさんが、なかなか首を縦にふってくれず、仏壇に近づくのがやっとでした。
     伊藤千代子の墓はどこにあるか、探すことができず、上島宝さん(後、市議)が、「伊藤善知さんが千代子ゆかりの人らしい」と紹介してくれ、訪ねたところ、竜雲寺に墓があり、「墓守は果たしてきた」ということで、墓まで案内してもらうことができました。
     従妹の平林センは、中金子の小学校のそばのたばこ屋さんということで訪ねましたが、墓は福島県ということで、この時限りで、後は行かなかつたと思います。
    3.
     この時始まった墓参は、単純で小さなことと思われるかも知れませんが、大変大きな役割を果たしました。その年の秋の衆議院選では、湖南の宮沢胤男派の後援会長が、林百郎支持を表明し、林百郎の13年ぶりの返り咲きに大いに貢献しました。
     後に、山岸一章さんの取材に同行した折も、「遺族や関係者が、なかなか会ってくれない、・・・例えば、明科の川手に訪ねた、ある人(名前、度忘れ) の実兄が、健在で在宅しているのに、ガンとして会わない。諏訪の、あの墓参という小さな行為が人々の心をひらかせて、作家の取材活動をも助けている。」と、山岸さんは感動し、私にくりかえしていたのを思い出します。
    4.
     私の家の庭先に15坪の小屋があります。息子がアトリエに使っていたものです。少し改装すれば資料の展示室になるのではないかと思われます。資料は公開し、なるべく多くの国民のみなさんに観てもらう必要があると思います。ぜひご一考ください。

    (諏訪市双葉ケ丘)