顕彰碑建立20年記念のつどい

2016年伊藤千代子「建碑20年記念のつどい」開催しました

 2016年10月1日、「伊藤千代子顕彰碑建立20年のつどい」は、龍雲寺霊園で墓参碑前祭・「こころのひろば」で講演と語る会が開催されました。 今年の行事は、節目の年でもあることから、実行委員会を立ち上げ多くの皆様のご協力をいただき、山本宣治研究者の本庄豊さんをお招きしての開催となりました。 今回の「つどい」は各地からの参加者でいっぱいになりました。本庄豊さんの素晴らしい講演に感銘を受け、有意義な「顕彰のつどい」になりました。  ご参加、ありがとうございました。

目次

碑前・墓前式 あいさつ

 「墓前・碑前祭」は、龍雲寺霊園で行なわれました。龍雲寺は、千代子さんが生まれた地にある古刹です。まず木島日出夫実行委員長のあいさつで始まり、続いて三澤実同事務局長から建碑20年への思いが述べられました。「墓前・碑前祭」は、参加者の焼香・献花のあと、全員の記念撮影で終了しました。

(1)木嶋日出夫 実行委員長の挨拶

皆さん大変ご苦労様でございます。伊藤千代子さんの顕彰碑を作ろうということで、今から20年前になりますが、1997年7月21日、千代子さんが元気であれば92歳の誕生日という日に合わせまして、作ったのが、この顕彰碑であります。
 ちょうど20年目になるということで、きっちりやろうということで、私は、ちょうど20年前は国会におりまして、実行委員長を仰せつかったという関係と、ちょうど10年ほど前に澤地久枝さんをお招きしての大きな記念の講演会をやったときに実行委員長をやっておりました。この間、地元の諏訪の皆さんを中心に「千代子こころざしの会」が組織されていまして、毎年、千代子さんの命日である9月の24日前後に設定致しまして、語る会・講演会をやっていたわけですが、今年は節目の年だから実行委員長をやれということで仰せつかりまして、やってまいりました。
 大変な悪天候、また、お忙しいなか、また、遠方にも関わらず、私どもの企画いたしました「20年記念の集い」の墓前祭・碑前祭に大勢お集まりいただきまして、本当にありがとうございました。
 私どもがこの顕彰碑を作ろうと考えたのは、単に千代子さんを歴史上の人物として顕彰するというだけではありませんでした。1997年という時代状況は、どういう状況だったのかといいますと、ソ連が崩壊し、世界の東西2つの軍事ブロックが崩れ始めまして、大きな流れとしては、一方では国連憲章や日本国憲法の理念に沿った「戦争の無い世界を作ろう」という動き、「そういう立場に合った日本の政治を作ろう」という大きな潮流と、ソ連が無くなって東側同盟が解体した中で、「アメリカ一極支配体制をさらに強めようと日米軍事同盟をさらに強化して、力の支配を強めていこう」という、率直に言いまして、そういう2つの大きな潮流が対決し、模索・混迷していた時代でありました。残念ながら日本政府は政権交代もありましたけれども、流れとしては日米軍事同盟を強化するという方向で動きを強め始め、そして小選挙区制を導入し、憲法まで作り変えていくという動きが強まり始めた、そんな時期でございました。
 その直前に、日本共産党の中央委員会総会で時の宮本顕治議長から、──戦前、戦争と暗黒の時代の前夜、昭和初期の時代に命を懸けてたたかい抜いた若い女性たちがいたんだ──ということが、名前とともに初めて明らかにされて、顕彰運動が始まったということです。
 私も諏訪に来てから数十年経っていたわけですが、不肖、この地の先輩として、こういう素晴らしい千代子さんがいたということ自体、それまでは知りませんでした。それ以来、今は亡き藤森明さんなどの〈千代子さんの戦前のたたかいの掘り起し〉に学びながら、二度と再びそういう時代を作ってはならない、という思いを込めて、大先達である千代子さんを顕彰しようという運動が盛り上がりまして、ここまでたどり着いたというわけであります。あれから20年、ひと昔が過ぎまして、顕彰運動に携わったたくさんの先輩たちがこころざし半ばで旅立ってしまいました。名前を挙げればキリが無いわけでありますが、時の流れを実感しております。
 改めてこの顕彰碑を見ますと、わずか20年ではありますが、顕彰の言葉を彫り込んだところも苔むすような状況で、20年という時間を実感しているところであります。私どもは今の時代状況をしっかり直視し、二度と千代子さんの生きた時代には戻さない、暗黒と戦争の時代には戻さない、という思いを込めて千代子さんの生涯とたたかいをしっかり学び、千代子さんの気持ちをしっかり継承し、頑張り抜いていく契機にしたいと思っております。私どももだいぶ歳を取って来ているわけですが、素晴らしい先達のたたかいぶりを次の世代に継承していく課題が私どもにもあるのではないか、と思っていますが、なかなか若い世代にうまく継承できない悩みが率直にみてあるわけです。改めて考えれば24歳という若さで頑張り抜いた千代子さんの顕彰をするには、20代の若い皆さんに、もっと千代子さんのことを知っていただくことが大事ではないかと痛感するわけであります。そんな思いで今日の集会を成功させ、今後に繋げていきたいと思っております。
 最後になりましたが、今日の墓前碑前祭・集会のためにご苦労いただいた実行委員会の皆さんをはじめ、ご協力いただいた皆さん、また、ご賛同くださいました皆さんに、心からの感謝を申し上げましてご挨拶に替えたいと思います。
本日は本当にありがとうございました。

(2)三澤 実 実行委員会事務局長の挨拶

 皆さん、本日はご参集いただきましてありがとうございました。また、下の「こころのひろば」だけ来るという人もおりますので、本庄さんのお話に期待しているところであります。どうぞ、よろしくお願いいたします。
写真 諏訪湖を望む顕彰碑の横で三澤事務局長の挨拶を聞く大勢の参加者1970年3月15日の新聞「赤旗」に「信濃路」という山岸一章さんの紀行文が、1面全部を使って掲載されました。塩尻市の朝日館から出発して諏訪に来た山岸さんを、当時、赤旗分局長だった塚田一敏さんが、バイクの後ろに乗っけてここまで来て、千代子さんのお墓参りをして行ったのです。それが「信濃路」という紀行文になり、「赤旗」に掲載されたのです。その新聞は、私も大事に保存してありますが、これが、この地方における〈千代子発掘〉の出発点となりました。
 その後、研究を深めたわけですが、私が市会議員になった年に、藤森明さんにお願いして千代子研究の成果を民報「新すわ」に連載しました。それが充実されて月刊雑誌に載り、国賠同盟が作成したパンフレットになり、さらに内容を充実させて『こころざし今に生きて』という本になりました。 その本の出版記念会で「ただちに実行委員会を作り顕彰碑を造ろう」という話になりました。
 当時、向かいの山間部に作業場を持っていた横沢英一さんという、有名な彫刻家に、まず、この本を読んでもらいました。そして、出来た形がこれでした。非常に目立つ碑が完成しました。碑の奥には土屋文明の短歌三首が刻まれています。文明は、歌碑を作らないことで有名でした。2005年、私たちが高崎市の土屋文明記念館を訪ねた折に対応された文明の長女=小市草子(かやこ)さんから、「直筆の碑文にしてもらってもいい」と許可をいただいて、現在の碑は実現したものです。直筆の碑があるのは、文明記念館と千代子さんの顕彰碑だけです。
 この間20年、全国からたくさんの方々に足を運んでいただきました。しかし、最近はやや少なくなっていますので、建碑20年を機に改めて千代子さんの顕彰碑への旅を全国的に促す方策を考えたいと思っています。
 私は現在、国家賠償と顕彰を運動の2本柱とする国賠同盟の諏訪地方支部長もやっていますが、「こころざしの会」や実行委員会に団体加盟の会員があってもいいのではないか、と考えています。これから論議を深めたいと思います。 皆さんの力でぜひこの顕彰碑を守り、多くの人の関心を呼べるような、今の時代に警鐘を鳴らせるような、碑にしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 ありがとうございました。
写真 建碑20年墓参・碑前祭に参加された皆さん

講演と語る会

「講演と語る会」は、会場を「こころのひろば」に移して午後から行なわれました。

記念講演

感銘をあたえた本庄さんの話

 写真 中学校の教科書を示しながら講演する本庄さん第二部「記念講演」は、会場を「こころのひろば」に移して行なわれ、地元=諏訪をはじめ北海道・東京・神奈川・京都・大阪など各地からの参加者で会場は、ほぼいっぱいとなりました。「遠くから来ていただいた方々のエネルギーはすごいと思った」という感想が聞かれました。
 講師の本庄さんは、教科書を提示したり、関係資料をプロジェクターで写したりしながら、軽快な語りで熱く話され、参加者に大きな感銘を与えました。「こんなに熱心に聴いていただいた会場は初めて」との感想が、後の懇談会で本条さんから語られました。 本庄さんは、ご自身の「山本宣治の周辺研究」から得た体験をベースに話されました。話題は、中学校教科書に採用された『ともに学ぶ人間の歴史』(本庄さん執筆の山本宣治についての記述あり)から始まり、山宣葬儀の群集の中に写っていた島崎こま子(島崎藤村の姪)、大久保留次郎(山宣暗殺の黒幕)と黒田保久二(暗殺の実行犯人)、小林多喜二の山宣追悼の短冊、幸徳秋水が書いたとみられる漢詩──などの研究成果を万華鏡のように展開され、興味深いものでした。
 それだけでなく、「伊藤千代子を次の世代に」と題する本庄さんの講演は、千代子への行き届いた目配りが感じられ、随所に千代子への言及がありました。教科書に山宣を記述した本庄さんは「伊藤千代子さんのことも、ぜひ書きたいものです。長野県の教師たちが、そういう運動を進めていったら書けるのではないか」と話されました。
教え子=千代子を詠んだ作品に触れ、「歌人の感性のみずみずしさを感じ取ることができる」と土屋文明を評価。また、「日本は今、深刻な状況だと思う。千代子が生きていたら『あなたたちは、何をしているの』と言うと思う」との、澤地久枝さんの言葉(千代子生誕100年記念講演)を紹介しながら、本条さんは「千代子をはじめ多くの埋もれた人々を発掘し、語り継いでいきたい」と抱負を述べられました。
「千代子さんの死は、山宣虐殺の意味を象徴的に表しています」と述べた本条さん。「国会で追及されることが無くなったから『好き放題やれるぞ』と権力者が思った。その大きな犠牲者が千代子さん(だった)」と指摘。山宣虐殺と治安維持法成立、千代子さんの死との、暗黒の時代の歴史的関連をこのように述べ、「千代子さんと周辺の人々の研究をぜひ進めてください」と私たちに呼びかけられました。

若い世代に伊藤千代子を

 伊藤千代子を顕彰し、語り継ぐ意義は、どこにあるのか? 本庄さんは講演の結びで次のように話されました。
プロジェクターの画面 おわりに~これからの日本と伊藤千代子 治安維持法はどんな法律だったのか 秘密保護法、戦争法、憲法の緊急事態条項などの本質に迫るために 戦争体制下で女性の人権が侵害されている事実を伝えるために ※日本軍慰安婦問題など(『学び舎』教科書参照) 若い人びとの政治的目覚めのありよう~千代子の意志はどうつくられたか シールスやママの会、長野県での市民運動の展開などと伊藤千代子 人間としてどう生きるか、どう社会とかかわるかを鋭く問う千代子 ──〈治安維持法とは、どんな法律だったか〉ということを若い世代に知ってもらう上で、私の学校の生徒の場合、千代子さんの例で話すとよく理解されました。それは、千代子さんは偉くない人、普通の人、年齢的に身近な人だからです。秘密保護法・戦争法などの本質に迫るための優れた教材になります。
──戦争体制下で女性の人権が侵害されていた事実を伝えるためにも、優れた教材になります。まず地元長野県での教材化、中・高の社会科・国語などでの授業化が望まれます。映像化・書籍化・テレビ報道も授業には役立つでしょう。
──長野県では学生、ママの会、市民運動など多彩に展開されました。若い世代の政治的目覚めのありようを考える上でも、〈千代子の意志は、どのように形成されたのか?〉──その道筋を究明することが重要です。
──若い世代は、人間としてどう生きるか、社会と関わるか、真剣に考えています。中には目が曇らされている人も、目の前の就職・生活に追われている人もいます。しかし、こうした人たちに千代子の姿・生き様を伝えていくことは、大きな意味があると考えます。
 このように本庄さんは、〈若い世代に治安維持法を知ってもらう〉〈戦争体制下での女性の人権侵害を伝える〉〈若い世代の政治的目覚め〉〈人間としてどう生きるか〉の視点から、千代子さんを顕彰し、語り継ぐ意義を強調されました。
「継続は力なり」の教訓を強く印象付けた講演から私たちは、伊藤千代子顕彰運動の発展にとって貴重なアドバイスを、いただくことができました。

「千代子こころざしの会」事務局・今井清水

語る会

講演のあと遠来の方々の代表者から活動報告がなされました。
特に北海道での活動の広がりが注目されました。

写真 お二人の方からご挨拶いただきました苫小牧からご参加頂きました 写真 東京から来ていただいた増本さんにご挨拶頂きました国賠同盟中央本部長増本さん

交流・懇談会

写真 講師ご夫妻を囲んで交流会 交流会は、別室に移動して講師ご夫妻を囲んでの懇談になりました。奥様に質問が集中して、和やかな雰囲気で進みました。
奥様からは「地域により親しんで貰うため、ごみだしなど家事を積極的に手伝って貰っている」ことなど話され、ご夫妻の人柄に触れるよい機会となりました。
講師からは「今後も、伊藤千代子の研究も深めていきたい」と話され、千代子の『こころざし』を語り継ぐ意義を参加者一同確認し合いました。

 
命あるものはみんなあらん限りに生きようとしているのですね・・・千代子最後の手紙より