千代子に光をあてた人たち

治安維持法は、当時の天皇制政府の絶対的な権力が国民をおさえつけ、権力に従わせる法律として猛威をふるいました。
 対象は、共産党はもとより労働組合、農民組合、宗教団体、学術研究サークル、芸術団体などへと際限なく広がり、平和を願う国民の口を封じていきました。
 拷問で虐殺されたり獄死したりした人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕投獄された人は数十万人に及んだといわれています。
 その中で、作家小林多喜二の獄中での拷問虐殺は、よく知られています。しかし、「隣の下宿にいた青年が突然連れていかれて、そのまま帰らなかった」との証言もあり、無数の「名も知られず命を落とした検挙者」があったと思われます。伊藤千代子も、そうした無名の活動家の一人でした。
 この伊藤千代子を歴史の暗闇から光の中へ掘り起こした人たちがいます。
このページでは、その足跡をたどっていきます。

目次

伊藤千代子 いま輝く ――掘り起こしつつ語り広げて―― 筆者=藤森 明

民衆史の中から

自分たちが生活している地域の歴史や、また日本の歩んできた歴史についても、民衆史の視点から見直し、新たな掘り起こしをしようと呼びかけ、運動を始めてから久しい。 自宅の玄関口に「諏訪地域民衆史研究所」という看板を掲げて仲間を集めたり、関係する団体も三つほど組織したりしてきた。
 そんな中で伊藤千代子に出会うのであるが、地元ではほとんど無名の人に近く、アララギ派の短歌の関係でわずかに知られていても、〝昔、アカで若くして亡くなった人〟くらいで片付けられていた。
 しかし、彼女の小学校時代の同級生が、地方新聞に「獄死した友の思い出=伊藤千代子さんを悼む」という投稿を彼女の47回目の命日に寄せられた。それを読んだり、直接にお尋ねして聞き語ったりするほどに、伊藤千代子が意外にも、ひっそりと彼女を知るわずかな人々の間に、今も敬愛されながら生き続けていることを知った。
 私は直ちに聞きとり調査や関係の生存者、縁者を尋ねてのお話や資料収集を始めた。しばらくして茅野市の婦人学級に女性史講座の講師を依頼され、近代史の時代区分の中で、こころざしの灯を掲げてたたかった一人として伊藤千代子をとりあげたところ、大きな感動を呼び、聞いてくれた人たちの心を揺さぶるものがあったようである。その証拠に「みんなで伊藤千代子の墓参りに行こう」と盛り上がり、それがきっかけとなって、市が所有する大型バスを提供させた婦人たちを現地に案内して歩くことになった。
 それは、学んだことを自分の目や足で確かめ、歴史は単にながめていたり、解釈ではなく、よい社会をつくっていくための教訓にしたり、自分たちの生き方や活動につなげていくことを確認しあう、よい機会にもなった。
 こうして諏訪地方には、「民衆史を歩く」運動が静かに広がっているが、伊藤千代子の出身地の党・日本共産党諏訪市委員会の地域新聞「新すわ」の編集部でも、読者を中心に呼びかけて「諏訪の民衆史を歩く会」を行なっている。
 自分たちの地域の歴史を、働く者の立場から見直そうと実施されたが、参加者も予想以上で、見なれたところであっても、見方を変えて民衆史の視点から見ると、新しい発見や感動がある、と好評であった。今年もまた、多くの読者や参加者から、民衆史を歩く会の実施が要望されているが、これは伊藤千代子を語ったことがきっかけになっていた。

書くことで生かせるかの思い

地域での婦人講座や歴史を語る会などで、伊藤千代子の生きざまを語り、聞きとりや資料集めも広げていた最中の時期に、日本共産党の宮本顕治議長が、中央委員会総会の冒頭発言で「こころざしつつたふれし少女」四人のうちに伊藤千代子もあげて、戦前のきびしい弾圧下での誇り高いたたかいを紹介したことが『赤旗』で報道された。
 それは1992(平成4)年3月5日で、感激を持って私はこの記事を読み、いたたまれない気持ちでペンを持ち、伊藤千代子の生涯をできるだけ克明に書き留めることを決意した。そして4ヵ月後の7月から伊藤千代子の出身地の党の地域新聞「新すわ」と、私の居住している茅野市の党の地域新聞「茅野民報」に「伊藤千代子の生涯とその時代」と題した掲載を始め、それは8回の連載となった。読者の反響はかなりのもので、直接に電話で激励されたり、次の記事の出るのが待ち遠しいなどといわれたり、これが励みとなった。
 伊藤千代子の出身地・諏訪地方という狭い地域に限らないで、せめて長野県下に広げようと考え、「民主長野」社の編集部へ自分から電話を入れ説明の結果、転載が了解された。この機会に全面的に書き直し、さらに聞きとり調査が進む中で13回の連載となった。
 ちょうどこの頃、東京三多摩いしずえ会(開放運動犠牲者遺族会)の総会が八ヶ岳山麓、原村の「もみの木荘」で開催され、終了後に知人の紹介で、私が諏訪地方の名所案内をすることになり、伊藤千代子の墓への案内と説明をおこない、手づくりのプリントをみなさんに配った。
 このご縁で、出版間もなく発禁本にされ、本も没収され〝幻の獄中記〟といわれた原菊枝の『女子党員獄中記』が、戦後の古本市で発見され、1981年に復刻を見た貴重な一冊を同会事務局長の森山良子さんからいただいたことは、ほんとうにうれしかった。獄中にあった市ヶ谷刑務所での、伊藤千代子とその周辺を知るうえで、欠かすことのできない必須の資料であったからである。しかも、森山さんは、私の差し上げた、伊藤千代子の連載記事をコピーして小冊子化したものを会員の方に配布されたり、学習資料に用いたりしていただき、これがまた刺激になった。  治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部の全国活動者会議で「三多摩いしずえ会」のこうした活動ぶりが報告され、長野県から参加していた代表の方々は、この経験から伊藤千代子のパンフ化を思い立ったという。
 同盟長野県本部から要請を受けた私は、〝再び戦争と暗黒政治を許すな〟の運動に役立つならと、即座に快諾。「伊藤千代子の生涯とその時代」に「夜明けをめざす不屈の青春」と副題をつけたパンフ3、000部が作成され、折から開催された日本共産党の「第33回赤旗まつり」で販売された。パンフは飛ぶように売れ、全国各地から参加された方々の間に広がった。感想や激励の電話や手紙が東京・大阪・北海道・宮城・山梨・神奈川など各地から寄せられ、また伊藤千代子の墓参の問い合わせや案内でせわしさが加わった。
 こうした経験は初めてであったので、「何か振り回される」思いもあったが、伊藤千代子の短い生涯が、こんなにも多くの人々の心をゆさぶり、共感と感銘をもって受けとめられ、今日でもなお光り輝いて人々を引きつけていることを実感し、私は胸を熱くした。
 党史の『日本共産党の70年』や『党史年表』に伊藤千代子の経歴と活動が記載されたのもこの年であり、前年の「第32回赤旗まつり」の日本共産党館での「不屈の青春-戦前の女性党員の群像」で伊藤千代子らが展示で紹介されていたことも、大きなはずみになっていた。

重症の床で本にする決意

これまで伊藤千代子の語りかけでお話をしたり、連載記事を書いてそれがパンフ程度にはなったりしたが、単行本として出版するようになるとは当初、思いもよらないことであった。まして1994(平成6)年の暮れに、自宅前の路上で交通事故に巻き込まれる寸前の老人をかばおうとして、逆に私の方が大型トラックとの接触で重傷を負い、3カ月の寝たきりの入院生活を余儀なくされた。その後も車椅子と松葉杖を使い分けたり、リハビリ通院で、自宅から人の手を借りながらタクシーで通ったりの、再手術も予定されていた身であった。かばいきれなくて事故になった老人は1ヵ月後に亡くなってしまったが、私は右足首を砕かれ、肋骨三本を折られても、頭部と脊髄に、異常がなかったのは、幸いであった。
 床に伏せっていた日々であったが、突然に東京から「学習の友」社の方が見えられ、戦後50年の節目に、これからの日本の将来を担っていく若者向けの出版物として、伊藤千代子の生涯を書いてほしいと懇望された。発行は3ヵ月後の11月、東京での「第34回赤旗まつり」の初日に発売したいとのことであった。
 自信はなかったが、村山内閣のもとで国会が強行した「戦後50周年決議」なるものを見たとき、戦争責任の反省と謝罪、不戦の決意表明とはほど遠い、不誠実で無反省な内容と態度に、私はひどく憤慨していた。
 それに3年ほど前の9月25日、それは伊藤千代子がむごい獄中生活で病死してから64回目の命日を数えた1日後のことであったが、「小川平吉50回忌をしのぶ会」なるものを出身地・富士見町で盛大に開いたとの記事に接し、やり切れない思いが底流にあった。それは治安維持法を制定させたときの担当大臣(1925年・加藤高明内閣司法大臣)が小川平吉であり、また伊藤千代子が精いっぱいの支援をし、社会的に目覚めるきっかけにもなった岡谷の山一林組の製糸工女らの大争議を徹底弾圧する方針をもって中央で動いていたのも小川平吉であったといわれていたからである。
 稀代の悪法といわれた治安維持法は、その後の日本の将来に暗雲を招き、そしてどれほど多くの民主的で平和を求めた人々に耐えがたい苦痛を与え、尊い命までも無残に奪っていったか。その暴虐を極めた結果についての責任は重大であり、今も問われている問題である。それにもかかわらず、彼の「しのぶ会」の記念碑には、治安維持法の制定や鉄道疑獄に関する記述は唯の1行もなく隠蔽したままで「激動の近代日本史に、また国際史に大きな足跡を残した」などとごまかしている。
 伊藤千代子は、まぎれもなくこの治安維持法によって命を奪われた最初の弾圧犠牲者であるのに、顕彰もされず、ただ埋もれたままにしておいてよいのかという思いが、再び私の胸中にこみ上げてきた。私は書く決意をしてペンを取った。本の題名は最終的に『こころざし いまに生きて』とし、表紙にはありし日の伊藤千代子が19才ころの清純な姿の写真を大きく入れ、若者向きに手ごろな厚さの110ページくらいのものに仕上げることになった。
 昼夜をかけて2ヵ月半で書き上げ、出版に間に合わせることができた。発売日は11月3日の「第34回赤旗まつり」初日とされていた。私にサインセールに出席してほしいとの要請には、足の回復状態から不安もあり躊躇したが、上京の意を決し、家族や同志たちに助けられながら杖を突いて大会場に参加した。
 3日間で全国から26万人の参加があったというが、私は1日だけで失礼させていただいたが、大書籍市や地方テントの中でも売れ行きは好調であった。出版局書籍取扱所の「しょせきニュース」で集計結果を後で知らされたが、「赤旗まつり大書籍市売上ベスト50」のうち第16位に「こころざし いまに生きて」が入っているとのことであった。
 こうして全国に広がっていく中で、さまざまな読後感や出版物への希望が、発行所の「学習の友」社や、わたくしのところへ数多く寄せられ、また各地の日本共産党後援会や民主団体から伊藤千代子への墓参や、ゆかりの場所への案内が申し込まれるようになった。

この本が声と力になるように

伊藤千代子の本が市中の書店の店頭に出回るようになった2月24日、地元の党市委員会が中心になって「出版記念・伊藤千代子を語る会」を盛大に開いていただいた。
 出版元・学習の友社から畑田重夫さんのメッセージが寄せられ、治安維持法国賠同盟長野県本部の富岡知雄さん(日本共産党県名誉委員長)の挨拶、そして千代子の母校・諏訪二葉高校同窓会の役員3名が参加され、会長さんからの挨拶をいただいた。私の方からは「この本を書いた思い」ということで、御礼を兼ねながら本をめぐる反響や最近の状況について報告し、私の家族ともども労をねぎらっていただいた。
 この集会で一番うれしかったことは、千代子の墓を今日まで守ってきた伊藤善知さんが、万感胸にせまる感激にむせびながら、この本の出版を喜んでくれ、これまでの人知れぬ苦労話をしてくれた。また千代子の父方の身内の赤沼安雄さんとの間に握手が交わされ、これを機会として双方の交流が始まったことも大変な収穫で印象的であった。
 実行委員長の栗田勝さん(日本共産党諏訪市委員長)は主催者挨拶として、伊藤千代子への関心の高まりにふれながら、顕彰碑の建立について計画が動き始めていることを報告され、今後への協力が正式に呼びかけられた。そして5月30日、伊藤千代子顕彰碑建立実行委員会(委員長=木島日出夫日本共産党衆議院議員)が結成され、諏訪市役所の記者クラブで一般新聞報道関係者に建立の趣旨や計画の概要が発表された。賛同呼びかけ人には地元諏訪市長をはじめ、千代子の生家継承者、父方実家、千代子の生地・南真志野区長などの名前を広く連ねていただくことができた。
 諏訪地方の各市町村単位に実行委員会組織をつくって取り組みがはじまったが、地域によって千代子の母校・諏訪二葉高校同窓会役員の有志や千代子の恩師・土屋文明のアララギ派の歌につながる方々も名前をつらね、協力していただくことができた。碑のデザインは東京都出身で仕事場を諏訪市角間沢に持つ横沢英一さんが積極的に申し出られ、お願いした。
 実行委員会は以後、16回の開催を軸にして、ニュースの発行や伊藤千代子への理解と募金の訴えを中心とした「語る会」を各所で開き、また全国から寄せられる問い合わせや振り込みの窓口となった。「赤旗」で日刊紙・日曜版とも積極的に取りあげて報道してくれたことも大きな力となって、反響の波紋を一気に広げてくれた。
 大阪から訪れた関西勤労者教育協会の方々には、信州での夏の研修の合間に千代子の話を聞いていただき、翌日は80名が大型バス2台で千代子の墓参に向かわれ、そして早くも碑建立への募金として多額なものを寄せられるなど、発足して間もなくの実行委員会や出迎えた千代子の身内をどれほど感激させ、はずみをつけさせてくれたことか。
 また山梨県や群馬県からも老活動家が、年金生活の大変な中から自分と周囲の人々からカンパを集めて送金してくれるなど、胸を熱くするような真心と連帯の浄財が届けられた。このようにして北は北海道から南は沖縄まで、700余の方々から心のこもった募金と熱い激励が寄せられ、また日本共産党中央委員会からも物心両面で、心強いご援助をいただいて、伊藤千代子顕彰碑建立資金の目標が基本的に達成できるところまできた。
 まだ、碑の建立地周辺の安全対策や整備工事なども残されているが、地元の協力も得られて進展しつつあり、千代子の墓や碑に向かう親切な案内板を立てていただくまでになっている。

いま なぜ伊藤千代子かを訴えて

私は、各地域で開かれる「伊藤千代子を語る会」に足を運んできた。没後68年もたって、今さら伊藤千代子もないだろうという声も、一部には聞かれた。しかし、いくら短い生涯であっても凝縮したように生き、あの暗黒の時代を命がけでこころざしを貫いた伊藤千代子の生きざまと足跡には、今日でも十分に学ぶべき内容があり、受け継ぐべき教訓を持っていると私は反論した。だから本を書くにも、私はそれを基本にしていたし、今を生きる自分たちの活動や生き方につなげたいと心がけてきた。
 「語る会」では、まず、伊藤千代子の生い立ちから、生きた時代の不平等さと暗黒面を解明し、その中で日本の夜明けをめざした千代子のこころざしの強さとやさしさを、残された手紙や事例を引きながら語りかけた。そして千代子の願ったものは、国民こそ主人公の主権在民であり、反戦平和であり、今日では当り前になっている民主的諸権利などであって、現憲法の基本につながるものでもあったと展開した。今、オール与党化の翼賛体制が強まり、憲法改悪の危険な動きの中で、再び戦争や暗黒政治への道を許さない決意をもって伊藤千代子を語り、そのこころざしを風化させないたたかいは、まさに今日的意義があるのではないかと訴えてまわった。
 無党派の人たちから自称「保守」の人など、日ごろ日本共産党と全く接触のなかった人たちも多く「語る会」に参加するようになり、「困難な時代に誠実にこころざしを貫いた人が身近にいたこと、その生きざまに、共産党はおっかないと思っていたが、かなり誤解していたな」とか「みんなの幸せや平和を求めて、命をかけてひたむきに生きた千代子は、すごい」、「千代子さんの強さとやさしさがわかってきた」などの声が聞かれ、感動が広っていった。
 たくさんの感想や手紙を寄せられているが、その一部を下諏訪町や岡谷市の党地域新聞に掲載されたものの中から要約して紹介しよう。

伊藤千代子の女学校時代の恩師でアララギ派の大歌人であった土屋文明は、千代子の後輩で獄中でも千代子といっしょにたたかった塩沢富美子さん(野呂栄太郎夫人)に「伊藤千代子がこと」と題をつけて、かつて千代子の死を悼んだ歌6首のうち3首を93才のときに書いて与えた肉筆が残されている。その3首の歌を伊藤千代子の顕彰碑建立に当って刻み込むことを了解していただいた土屋文明のご遺族(娘の高野うめさん)は、実行委員会へ次のような一文を寄せられた。「なき父の短歌がお役に立ち、伊藤千代子さんの生涯と、その生涯を想う父の気持ちが、共にこれからも皆さんに伝えられることを文明の遺族として大変うれしく思っております」
 また千代子に関しての聞き取り調査のなかで、92才の高齢にもにもかかわらず生存されている千代子の小学校時代の同級生がおられることがわかり、この7月21日の千代子碑除幕式に参加してくれた葛城よ志子さん(富士見町)と原とみよさん(諏訪市)のお二人は、千代子の思い出を語りながら、炎天下のなかでしっかりと除幕の綱を引いてくれた。
 地元で保守系といわれる笠原諏訪市長は当初から碑建立に当っての賛同呼びかけ人に名を連ね、除幕式には「伊藤千代子の進取の気性に富む開拓者精神と、そのひたむきな生き方は、現代を生きる私たちにとっても尊敬に値するものであると考え、今回、私は顕彰碑の建立に協力させていただきました。(中略)あの難しい時代に自分の信念を貫き通し、純粋に、そして誠実に生きた伊藤千代子に心から敬意を表したい。(後略)」とメッセージを寄せられた。
 千代子の生地・南真志野区は、千代子の碑建立の土地を提供してくれたり、千代子の墓と碑への案内板を立ててくれたりなど、誠意あふれる数々のご協力をいただいている。
 区長の原博一さんは碑建立祝賀会での挨拶のなかで、「地元とすれば、イデオロギーというよりも皆が一定の方向に向かわされている暗黒の時代に、ここで育った一人の女性が自分の足元を見つめ、本当に皆が向いてしまっていいのだろうか、という純情な気持ちで、大河に身を投げ出すかっこうで生きられたことに、誇らしい思いをいたしております」と
述べられ、実行委員会から地元区へ感謝状が贈られた。かつては千代子のことを語るのも避けられ、千代子や千代子の縁者に対しても、決して暖かであったといえない空気のあった地元に、今や草の根民主主義が根付き、千代子への理解と生きざまへの共感が静かに広がっている。
 千代子の墓を長く守りつづけ供養してきた伊藤善知さんは、目に涙をためながら碑建立の喜びを語った。「死んでひっそり故郷に帰り、語ることもはばかられた時代もあったが、このように皆さんに見守られて立派な碑ができたことは本当にうれしい。千代子さ“よかったな”といいたい」
 伊藤千代子顕彰碑建立運動の軸になってくれた諏訪市の党市委員会の地域新聞「新すわ」は、その歴史的な「碑」除幕を報じる見出しに「こころざしつつ、たおれし千代子よ、新しい火はついに灯ったよ」と書いたが、まさに千代子のそのこころざしを受け継ぐ人々、そしてまた千代子を敬愛する多くの人々の“良心の灯”が結集して、立派な碑の建立となった。伊藤千代子のこころざしを風化させず、より広く、より大きなうねりとなって、よりよい日本の明日をきり拓く力となっていくことを願ってやまないのである。

筆者=藤森 明(地域民衆史研究者 1999年4月10日逝去)

命あるものはみんなあらん限りに生きようとしているのですね・・・千代子最後の手紙より