石垣ともみじを植えて環境整備が完了(1997年10月)
除幕式にて(1997年7月21日)
山側から諏訪を望む
横沢です。今回の設計に関して説明してあいさつに代えます。
実は、伊藤千代子さんのことは良く知らなかったです。
とりあえず、ぼくの友人で長く頑張っている党員が東京におりまして電話しましたら、それはすばらしい人だ是非作ってやりなさいという話がありました。
それから、ぼくの友人で今回の仕事も手伝っていただきました折井諏訪植木さんを通じて、栗田さんをはじめ諏訪の議員の方々に正式に設計を依頼されました。
それでまず私自身がやったことは、藤森明さんの本を読ませていただきました。それを読んだ時の衝撃がありまして、これはそう簡単なことはできんと思いました。何としてもいいものを作らなければいけないのですが、あまりにも難しすぎるということを考えました。
それで、場所などの条件を一応調査しました。それから伊藤千代子さんのすさまじい生き様をどう表現するか、しかもその生き様を通してわれわれがいまだに脈々と通ずるような光というものが永遠に生きるのではないかということを考えました。
まず、一番のコンセプト (注:概念)は影と光という題名を自分でつくったわけです。影というのは、伊藤千代子さんの生きた当時の日本の政治状況の暗い部分に精一杯生きて、しかもその.犠牲を通しておそらく永遠にに我々に光を与えてくれたのだという解釈をして、光と影という大きなコンセプトをつくった次第です。
それから、ああいう碑を建てられる条件というものがあります。ああいう場所を与えられたのも何かの因縁があると考えたのです。周辺は墓場なんですが、その中に一つ墓とは違った意味を持ち、この土地を愛しながらもっと広い考えをもって生きられた伊藤千代子さんをどう表現したらよいかということがあります。
もうひとつは、土屋文明さんの歌がありますから、それとの競合をどうすればよいかというこせも考えて最終的にああいう形になりました。
単なる平面でものを考えたくないということと、近くに行った時に土屋文明さんの歌をはじめ伊藤千代子さんの生い立ちその他も分かるという形、それから、ちょっと通り過ぎても、墓場に来る人達がひょっと見ただけでも「あっ」というひとつの刺激的な印象があるということを考えて、ああいう形になりました。
石を使うということは、未来永劫にいい形で変化する、地球の基盤みたいなものがあるということで、石という材料を使いました。
直角三角形を建てたというのは、伊藤千代子さんの思想的な背景にあるものは、大地に踏ん張ってしっかり踏まえてものをやらなければいけないということを通したということを加味して、ああいう形になったわけです。
そういうことが、.設計の意図です。
[一部のみで失礼します。今後はすべて掲載します]
2013年9月30日
伊藤千代子願彰碑を訪れる人々が9月に入って多くなり、30日は大阪・愛知の国賠同盟(治安維持法国家賠償同盟)の方々が来訪されました。
大型パス1台で来訪されました。一行は、上田市経由、無言館、翌日、山本宣治の碑を防問。下諏訪町萩倉ロで諏訪入り。ここで三沢実さん(こころざしの会事務局長)が乗り込み、諏訪湖・諏訪大社・片倉館などを回遊――バスの中では、村上多喜雄・有賀勝夫妻など、干代子と同時代に生き、獄で命を奪われた人々の生き様などを語りました。
大型車は碑前まで入れないため、足に不安のある方には「伊藤千代子こころざしの会」のメンバー7人がマイカーを出し、墓碑・顕彰碑のある場所まで送迎しました。
一同墓参のあと、伊藤善知さんが挨拶。「地元のみなさんの好意でこのような場所に、しかも市長はじめ地元はもとより全国の皆様のご協力で立派な碑ができました」と、いつもの涙ながらの挨拶でした。
その後、目前に広がる景色の説明などもあり、藤森守さん(諏訪市議)が締めの挨拶。一同は碑を前景に記念写真を撮ったあと、1時間余の顕彰碑訪間を終え、パスで帰路につきました。大阪へは夜9時過ぎの帰着だったようです。多くの方が千代子関連のパンフ・記念誌・本などを入手して帰られました。
8名のみなさんは30日午後2時、ワゴン車で到着しました。阿智村「満豪開拓平和記念館」 を見学後、諏訪入りしたとのことで、顕彰碑の丘から眼前に広がる諏訪の景色に、みなさん感嘆しきりでした。記念誌をみなさんに購入していただきました。
今回は先遣隊としての来訪で、のちに女性部中心の多数のメンバーで訪ねる計画を進めているとのことでした。
初日、ちひろ美術館っで鑑賞・散策を楽しみ、翌日、山宣の碑・無言館を巡り午後に伊藤千代子顕彰碑を訪れました。
「諏訪への旅」の途次立ち寄られました。
「信州の旅」の途次立ち寄られました。
全国幹事会とのことで北海道から九州まで、各支部の皆さんが集合しました。
千代子碑が見学のメインであったが、赤彦の家、赤彦記念館、藤森成吉碑などにも立ち寄った。
今回、受け入れ態勢を3人で組み、それなりの検討を相互に行ったことで、きついスケジュールを何とかこなした。それにしても、皆様お元気でした。
『新日本歌人』は、昭和21年創刊(月刊)といい、石川啄木、渡辺順三系・生活派と『短歌年鑑』にて伺いましたが、寄贈いただいた最近刊誌を 拝見させていただき、なるほどなるほどと感心しました。(田中)
次のような礼状が届きました。(片桐泰子様より)
「先日は本当に、ご親切にして頂きましてありがとうございました。全員感謝の気持ちいっぱいで無事名古屋に帰りました。
もっと、ゆっくりお話を伺いたかったと、一泊行事の中で企画すべきだったと反省しています。又の機会を作って諏訪を訪れたいと思っています。
語り継ぐ人ありて碑に菊薫る 康子
他の皆様も千代子さんの碑に関する俳句を作っていらしゃいますので、感想がわりに後日送らせて頂きます。
こころざしの会の皆様のご健勝をお祈りしています。」
(大阪から原村ペンションへ大型バス3台で来ており、2日目にオプショナルツアー「伊藤千代子碑を訪ねるツアー」企画で、大型バス1台45人が参加)
7月18日、インター付近で合流して案内した。実は「夏の勤労協大学」は1997年、美ヶ原で開催されており、やはり大型バスで千代子の墓を訪れてくれた。メンバーはほとんど替わっているのだろうが顕彰碑完成直前で私たちの運動が全国的注目の中で大きく励まされた。
伊藤千代子顕彰碑のところでは献花の後、若い女性が参加者を代表して「誓いの言葉」を読み上げた。
「・・・いま私たちは憲法九条改悪・・・など重大な情勢にに直面しています。・・・千代子が求めてやまなかった明るい日本の国づくりのため奮闘することを顕彰碑の前で改めて誓います。」と。
このあと私と伊東善知さんが挨拶し、伊藤千代子さんの墓にも参ってもらいました。
なお、前日には草取り清掃に8人、当日大型バスから降りた方を現地まで車で送迎の4人等その受け入れのため力を貸してもらいました。 〈三沢実〉
参議院選直後の12日、湖畔のホテル下合流して半日の案内、2人で対応した。
「アララギ」全国誌は数年前に廃刊しているが、今も「アララギ」を掲げて活動している。松山出身の正岡子規を源流とする集団と聞く。
20日に礼状が届いた。「・・・諏訪の土地と其処に育った人々となにかしらつながりのあるものを感じ・・・」とありました。
おくられた「高知アララギ」7月号に目を通していて目に留まったのが「時事詠」、イラク、憲法、自衛隊派遣から鳥インフルエンザまで、・・・歌人の心、人間くささのにじむ集団だ感じ入った。 〈三沢実〉
群馬県渋川市から、15名の皆さんが顕彰碑を訪れました。
諏訪市の片倉館での開催となった冬の赤旗まつりの時の写真です 〈三沢実〉
藤沢弘太郎様より礼状ありました。 〈三沢実)
東京・日本共産党南多摩青年講演会と民青同盟南多摩地域協議会が長野県原村のペンションで開いた秋の学習合宿の顕彰碑の見学ツアーで訪れました。
蓼科一泊旅行で訪れました。