没後80年記念のつどい記録

目次
  碑前・墓前式 あいさつ(要旨)   記念講演会 あいさつ(要旨)

『伊藤千代子没80年記念のつどい』に300人!

2009年9月23日行われた「伊藤千代子没80年記念のつどい」には、生誕の地・諏訪に300人が集い、千代子の志を継いで総ての人々が幸せに暮らせる平和な世の中にしようと誓い合いました。

碑前・墓前式 あいさつ(要旨)

(1)墓前に前進を誓う

写真 挨拶する上田秀昭地元実行委員会委員長この度の衆議院選挙、小選挙区でたたかった上田秀昭です。ありがとうございました。
 いまから80年前、共産党員として活動中、不当にも弾圧され、24歳という若さで生涯を閉じた伊藤千代子さん。社会進歩の先覚として、大きな足跡を残しました。今から10年前、全国の賛同される多くのみなさん方によって、千代子さんが生れ育ったこの地に顕彰碑が建てられました。今回、没後80年の碑前・墓前式には全国から100名を越す皆様においでいただきました。
 今回の選挙で、50年間、政権の座にあった自民党が、国民から見放されました。これから新しい歴史が始まります。日本共産党は、民主党支持の嵐の中で現有9議席を確保しました。
わたしたちは、もっともっと力をつけて、来年の参議院選挙で前進することを千代子さんの墓前に誓うものです。

(上田秀昭 地元実行委員会委員長)

(2)千代子の志を継いで

 

ここにお集まりの皆様方に御礼申し上げ、感謝の念をお伝えするものです。思えば昭和の初期、1920年代に、あの悪法といわれる治安維持法によって逮捕され、24歳の若さで志半ばで没した千代子の無念を思うとき、まことに切なく思う次第です。
 先の選挙で示されたように、時代はいま、新しいうねりが兆しています。遷化の(亡くなった)千代子もさぞ、喜んでおることでしょう。どうか千代子の志を継ぎ、新しい社会の発展のため、お互いにがんばることが、千代子への供養だと考えます。本日は、まことにありがとうございました。

(関 勘正 こころざしの会会長)

(3)旗を高く掲げて

写真 挨拶する松原勝在京・千代子の会代表 この墓前祭にあたり、ごあいさつを申し上げます。私たちは昨年9月、東京で「千代子没後79周年」の記念のつどいをひらきました。300人も集りましたでしょうか。松本善明さんが、いわさき・ちひろと伊藤千代子の活動の軌跡をしみじみと語られました。
 私たちは今日、100余人の仲間といっしょにこの式典に参集しています。ここで私の歌を紹介させていただきます。――いのちかけ 反戦平和を貫きし 君が九月に今日生きてをり――。
 千代子がいのちを絶たれた24歳のとき、私は5歳でありました。長じてから、このような人がいたことを知り、同じ地に育った者として感銘しました。
 千代子がいのちをかけたのは、反戦平和だけではないのです。人びとが苦しんでいるこの地で、権力とたたかいました。その思想性の高さは、比類ないものと感じております。
 千代子のこころざしを継ぎ、反戦平和・民主主義の旗を高く掲げて、国の在り様をただしていくことを、今、この墓前で誓い合おうではありませんか。

松原 勝 (在京・千代子の会代表)

(4)うれしかったこと

写真 涙ながらに挨拶する伊藤善知さん みなさま今日は、遠いところからおいでいただき、ありがとうございました。
 千代子の没後80年を、このように多くのみなさまから偲んでいただき、本当に良い時代が来たものと思っています。節目、節目で呼んでいただき、夢のような気持ちです。
 今年は三沢さんに連れて行っていただき、浅野晃さんの弟さんと、話すことができました。一番うれしかったのは、千代子さを育ててくれた岩波のおじいさま・おばあさまの話を聞けたことです。話してくれる人に会えたこと、弟さんから聞いたことを、私は帰ってきて千代子さに話しました。何だか肩の荷が下りたような気がします。
 みなさま、今後ともよろしくおねがいいたします。

伊藤善知(親族代表)

記念講演会 あいさつと講演内容(要旨)

(1)再来させない暗黒の時代

木島日出夫(伊藤千代子没後80年記念のつどい代表)

本日は秋の最後の5連休にもかかわらず伊藤千代子没後80年記念の集いに大勢お集まりいただきありがとうございます。この行事は、地元の「千代子こころざしの会」と、東京の「伊藤千代子の会」の共催で取り組んできましたが、代表ということでご挨拶させていただきます。

先見性あった党の「旗」
 

伊藤千代子は、1929年、24歳で亡くなりました。前年、特高警察によって逮捕され、市ヶ谷刑務所に収監されました。過酷な拷問・取調べが続けられました.。その苦悩は限界を越え、異常をきたし、29年9月、東京松沢病院に入院しました。病院の経過概要が発見されていますが、9月8日に義母と面会をしております。概要によると「体調・表情良く」とありますが、このあと記載がなくなりまして突如、24日に「死亡」と記るされています。この間に医師は、治療を放棄したのではないか、と考えられております。 
写真 挨拶する木島日出夫伊藤千代子没後80年記念のつどい代表 会場にはいっぱいの人人々・・・ 何ゆえに千代子は、いのちを奪われたのでしょうか。逮捕は治安維持法によるものです。政府は25年4月、治安維持法を制定しました。法務大臣が、諏訪出身の小川平吉、警補局の中心が岡谷出身の山岡万之助でした。「国体を変革する…ことを目的として結社を組織し、または情を知りて加入したる者は、十年以下の懲役…に処す」―治安維持法第一条です。「国体を変革する」とは、天皇主権から国民主権に変えることでしょう。
 千代子は、28年2月末に日本共産党に入党しました。そのわずか半月後に逮捕されたのです。日本共産党は、22年に創立されていましたが、天皇・軍部による中国侵略がもくろまれている情勢の中、27年7月、「日本問題に関する決議」で当面する任務を明らかにしました。
 その第1項目に、「帝国主義戦争の危険にたいする闘争」とあり、以下、「植民地の完全なる独立」、「君主制の廃止」、「18歳以上男女の普通選挙権実現」、「集会結社団結等の権利」、「8時間労働」、「失業保険」、「労働者抑圧法制の廃止」、「累進所得税の賦課」などが並んでいます。
 今日の日本では、当たり前のことばかりですが、きわめて先見性のある方針でした。時の天皇制政府は、侵略戦争遂行のために、このような旗をかかげてたたかう共産党を、抹殺しなければならなかったのです。それが三・一五事件であり、全国で1,600名を超える人びとが逮捕されました。

中国侵略戦争への入り口で
 

三・一五事件直後の28年6月、治安維持法は、緊急勅令によって、死刑法に改悪されたのです。戦争に反対することは、文字通り命がけになったわけです。
 35年、千代子の死を知った諏訪高女時代の恩師土屋文明は、歌を詠んだわけですが、命がけのことだったと思います(3首を紹介=略)。千代子が亡くなった2年後、天皇制政府は中国侵略を開始し、15年戦争の時代へ突入しました。
 私は、中国人強制連行強制労働事件長野訴訟の弁護団に加わっています。去る2月、残念ながら「裁判を起こす権利は無くなった」として、三下り半の判決が東京高裁でありました。遺族の一人が私と木曽へ行って現場を見ました。「中国のみなさんは、だれでも忘れられない日がある。9月18日だ」と話されました。日本が、中国侵略を始めた日です。千代子の死は、まさに15年戦争の入り口に位置し、その結末がヒロシマ・ナガサキでした。
 今日お話いただく窪島誠一郎さんの無言館のこと、戦没画学生のこと、これも戦争の実相の一つだと思います。私どもは、千代子没後68年に顕彰碑を建立し、05年には生誕100周年事業をおこないました。また、毎年、墓参をおこなってまいりました。このような顕彰をつづけてきたのは、戦争と暗黒の時代を絶対に再来させない、ゆるぎない平和と暮らしを守る、――そのために千代子のこころざしを受け継ぎ、後の世代に伝えたいためであります。
 きょう1日が意義ある日となることを願いまして、ごあいさつとさせていただきます。ありがとうございました。

(2)顕彰運動の現状と課題

畑田重夫(伊藤千代子没後80年記念のつどい副代表)

みなさん、こんにちは! 全国各地からお集まりいただき、まさに日本の良心が結集されている、この場であります。
 私と同期の仲間たちの絵が、このあと話される無言館に保存されていますが、日本の歴史を考える場合、感慨無量でございます。伊藤千代子に関してお話することは、省略したいと思います。
 09年8月30日、総選挙で主権者である日本国民が、投票行動を通して政権交代を実現させ、ついに自民党は、第1党から滑り落ちました。細川内閣のときも自民党は第1党でした。小沢一郎は自民党を出て8党派を結集し、細川をかつぎました。
 今度、55年の自民党結党以来、初めて第1党ではなくなったのです。その力は、日本の国民が発揮したのです。あの歴史的な日に行動したことを誇りに思いたいと思います。
 つい数年前まで、千代子を知らない人は、いっぱいいました。いまでは、千代子や、その会は、知られてきております。それは、千代子に関する著書や顕彰運動の発展などが、大きな力になっていると思います。
写真 挨拶する畑田重夫(伊藤千代子没後80年記念のつどい副代表) 川上肇も生誕130年ですが、これはいっかい・ともよしさんが中心になって研究しています。沖縄でも宮良英加という人を外間喜明さんが追究しています。こういう仕事があって、初めて知られるようになりました。小林多喜二とか宮本百合子は知っていても、伊藤千代子はぜんぜん知らない――それが、圧倒的多数の日本国民です。
 こういう顕彰運動が一つの流れとなりました。蟹工船ブームとか、多喜二ブームもその流れの一環であります。喜ぶべき、心強いことだと思っております。
 つねづね申し上げてきましたが、「歴史に学び、現実をみつめ、未来を創る」――もともと、こうあるべきですが、新しいものを創ろうとする者ほど、古いものを大事にする。歴史を考える場合の、弁証法のことわりでもあります。
 今や、長野県におりました優れた唯物論哲学者・永田広志の顕彰運動も始まってきました。今日、お見えになっている山宣会にしても京都・宇治で毎年3月5日、つどいがおこなわれていますが、今年は生誕120周年、節目の年であります。10月11日には、この長野県上田で碑前祭が計画されています。
 こうしたすぐれた先覚者・先輩たちのこころざしを、われわれが引き継いで行こうという大きな企画が、各地で盛り上がってまいりました。地元の千代子こころざしの会のみなさんのご苦労にたいし、あらためて在京の代表として敬意を表したいと思います。
 最近ドイツでは、治安維持法のような法律で犠牲になった人びとの、完全な、名誉回復の法律が成立しました。日本でも治安維持法同盟や国賠同盟が運動しておりますが、治安維持法の犠牲者、レッドパージの犠牲者、戦争・空襲の犠牲者、すべての個人にいたるまで、国が補償すること、これがわれわれの新たな課題となっています。
 歴史の新しい段階にあって、本格的なたたかいがはじまることを千代子の霊前で誓ったはずでございます。きょうから明日にかけての「つどい」の催しが、われわれのエネルギーの源泉となり、蓄えられますことを心から期待して、簡単ですが在京の会を代表して、ご挨拶にかえたいと思います。ありがとうございました。

(3)「伊藤千代子に捧げる」

写真 「伊藤千代子に捧げる」熱唱する中村洋子さん 諏訪市豊田出身、千代子と同じ諏訪高等女学校の後輩・中村洋子さんは、2002年6月以来、うたごえ運動の先達・高平つぐゆき氏に依頼して作曲した「伊藤千代子を歌う三つの歌曲」を伊藤千代子・小林多喜二等の顕彰の集いなどで歌い続けている。
 この日も片倉館の音響不十分の中でも、高らかに歌い上げ参加者は感銘を受けた


(4)記念講演 演題 「無言館のこと」

 記念講演の内容は、窪島誠一郎さんのご希望により掲載できません。ここに今井清水さんの感想と「岡谷民報」に掲載された記事から今井ひでみ岡谷市議会議員の感想をご本人の了解をえて、転載させていただきました。

千代子没80年記念・窪島講演「無言館のこと」を聞いて

今井清水(伊藤千代子こころざしの会事務局) 

 
藤森成吉と千代子
 

写真 講演する窪島誠一郎 無言館 館主窪島さんの講演は、伊藤千代子からはじまりました。「庶民の立場から反旗を翻し、流れ星のように24歳の生涯を終えた女性運動家」と千代子を表現し、「それが諏訪の人だったなあ、と思い出した」と話されました。
 窪島さんが、「伊藤千代子という名前を心に刻んだ」きっかけは、「藤森成吉さんの本の中に、〝藤森さんが普通選挙に出た時、千代子さんが、大変、応援された〟」と書かれていたことだ、とも話されました。「本」というのは、選挙の顛末を語った講演記録「我等は斯く戦へり」のことでしょう。
「一人の人間が燃やした小さな種火が、引き継がれ、大きな松明、炎となっていく」と比喩的に表現した窪島さん。「人間としての行き方が問われている時代に、千代子さんのこころざしが大きく育って行くことを望んでいます」と結び、千代子の燃やした「種火」が引き継がれ、「炎」と燃えさかる未来に期待を表明されました。

 
信濃デッサン館と村山槐多
 

話は、信濃デッサン館へとすすみました。なぜ、信州上田にあるのか。その事情を窪島さんは、「道玄坂の古書店で村山槐多の詩画集に出会わなかったら、彼の描いた信州の絵を訪ねて上田まで来ることはなかった」と明かされました。
 画家を目指して家出した槐多が向った先が、従兄弟(山本鼎)のいた上田だったのです。槐多は「神様、あと1日のいのちをください」という詩を残して、東京で亡くなりました。25歳でした。

  
槐多と千代子

「叫ぶようにして亡くなった槐多を忘れないでください」と熱を込めた窪島さん。「槐多の死は、千代子さんが亡くなるちょうど10年前です。絵を描くこころざし、世直しのこころざし――強いこころざしを貫いた槐多と千代子さんは、ことによったら同志かもしれません」と、一流の「窪島説」を展開されました。

 
「祈りの画集」と野見山暁二

信濃デッサン館での15回目の「槐多忌」に野見山暁二先生をゲスト招待し、別所温泉で初めて会った窪島さんは、『祈りの画集』を手にしていました。
 これは、「戦没美術学校生の画集で、先生がNHKのカメラマンと全国をまわって作ったもの」でした。『画集』を見た先生は「傷んだ絵が気が気でなくてねえ」と話されたそうです。仲間の戦没画学生の残された作品を心配された先生も、病気で内地帰還した画学生でしたから。
二人三脚の旅が始まったのは、4ヵ月後のことでした。

 
無言館、二つの訴え

「無言館は、反戦平和の美術館といわれています。たしかにそうです。彼等の絵の前に立てば、今の平和がいかに尊いか、という思いをいだくのは当然です」と話された窪島さんは、「彼等は、大好きな人、愛する人や物を描いたのです。〈自分はたしかに、ここに生きて、支えられている〉――愛するものへの感謝、愛することのすばらしさを描いたのです」と強調されました。
窪島さんは、「彼らが告発しているのは、《戦後、私達は、どんな風に生きてきたのか》ということでしょう」ときびしい言葉で結びました。

「月光」の曲と一台のピアノ

――昭和20年5月。知覧から出撃するという特攻服の二人の青年が、「ピアノを弾かせてください」と鳥栖市の小学校を訪れ、「月光」の曲を弾きました。戦後、勇気ある証言で処分を免れ、修理されたピアノの披露会場へ現われた老人は、機体トラブルで引き返した、あの特攻服のひとりでした。会場にはふたたび「月光」の曲が響きました―― 
 この有名な話を紹介された窪島さんは、 「音楽の吉岡先生が証言したように、自分のいのちは、自分の感動を伝えるためにある」と述べ、「人は自分だけのピアノを持って、生れてきています。そのピアノを弾いていきたいものです」と講演を結ばれました。

窪島誠一郎氏の講演に思う

今井ひでみ(岡谷市市会議員) 

9月23日、伊藤千代子没後80周年記念のつどいが開催され、片倉館に会場一杯の 300人が集まりました。戦争反対を貫き、若くして命を落とした千代子の生涯を改めて偲び、今を生きる私たちが何をしなければならないのかを考えさせるつどいになりました。
 無言館館主の窪島誠一郎氏が記念講演を行いました。戦場で死んでいった若き画学生の家を一軒一軒訪ね、その絵を集め無言館を開館した。反戦の美術館といえば、それはそのとうりかもしれないが、それだけではない。「あと少し時間があれば、愛する妻の姿を、愛する家族の絵を描けたのに」という思いを感じ取ってほしい。現代の私たちは、愛する家族、愛する友人を大切にするということを忘れてしまっているのではないか。その訴えは痛く感じるものがありました。
写真 講演終了後サインセールを行う窪島さん特攻で明日にも海に散っていくという直前に鳥栖の小学校のグランドピアノを思う存分弾きたいと2人の若者が学校をたずね、ベートーベンの「月光」を美しく弾いていったこと。それから50年もたってから、そのピアノを処分するという話がもちあがったとき、当時、その小学校の先生だった方がその話を口にし、ピアノを保存することになったこと。そのときの若者の1人が生き残っていて、「月光」を再び弾いてみんなの心に深い感動を与えたことが話されました。私たちも感動の連鎖をつくり出していこうという訴えに改めて深く感じるものがありました。

(5) 私たちが引き継ぐもの

三沢 実(伊藤千代子こころざしの会事務局長)

窪島先生、ありがとうございました。先生のご講演を、私たちは、日本の未来を考える契機にしていきたいと思います。
 千代子が亡くなって80年、いのちをかけてたたかった歴史の扉、新しい扉が開こうとしています。私たちは、その扉を開けて新しい日本、平和で国民が主人公の日本を作っていきたいと思います。
写真 講演会の締めの挨拶をする三沢実伊藤千代子こころざしの会事務局長 今回の80年記念事業は、木島日出夫先生を代表者とし、千代子の会(在京)・千代子こころざしの会の共催として初めて開かせていただきました。不十分なところもあったかと思いますが、これから顕彰運動のあり方を検討し、新しい方針を出して、進めていきたいと考えています。
 全国から多くの皆さん方にお集まりいただき、千代子への思いを新たにしているところです。山本宣治が殺されて80年。10月11日には、別所温泉で碑前祭があります。千代子が亡くなったのが9月24日、この片倉館も開業80年ですが、片倉館を味わっていただきたいという願いも込めて会場設定をしました。片倉館は千代子がたたかい、支援した製糸工女の思いのこもった施設です。
 こういう場所で私たちも新たな決意をかためようではありませんか。
記入用紙がお手元の袋に入っていますので、みなさん方の感想・ご意見など、お手紙を寄せてください。お願いいたします。
 また、この集会のあと、全国交流会、オプショナルツアーがあります。なお、ここでは窪島先生の本のサインセールのほか、その他の本・資料を販売していますので、お買い求めください。ジシバリの株も用意してあります。この花は、顕彰碑のまわりでも咲いています。
 窪島先生が話された画学生の心、ジシバリに託した千代子の心を、私たちは引き継ごうではありませんか。
 本日は多数お集まりいただきまして、ありがとうございました。以上で、閉会のご挨拶とさせていただきます。

全国交流会

 

全国交流会は、午後5時30分からラコ華乃井ホテルで行われました。
 平島佐一氏が「諏訪双葉高校百年史」編纂のいきさつ、とくに土屋文明・伊藤千代子・平林たい子をどういう角度から取り上げたかを語り、「百年史」に伊藤千代子の事跡が大きくクローズアップされたことを報告しました。
 ついで、千代子が進学した仙台・尚絅女学校について野呂アイ・尚絅学院大学名誉教授が、最近の研究によって千代子の新たな社会思潮への開花がこの時期形づくられた背景が明らかになって来たと述べ、尚絅女学院関係者の中に伊藤千代子の存在とその後の活動家たちの輩出の系譜が明らかになりつつあることが報告されました。
 畑田重夫氏の力強い挨拶。木島日出夫氏の乾杯の音頭のあと、参加者はそれぞれに墓前・碑前での感動と千代子への想い、新たな政治情勢の下で直面する活動の様子などを紹介、交流を深め、「信濃の国」や「千の風になって」を歌い、最後は全員が手をつなぎ合い輪になって「赤とんぼ」を合唱して交流を深め合いました。

写真挨拶する畑田重夫さん 写真乾杯の音頭をとる木島日出夫さん
写真平島佐一氏が
「諏訪二葉高校百年史」編纂のいきさつを語る
写真 仙台・尚絅女学校について語る
野呂アイ・尚絅学院大学名誉教授
写真全員で手をつなぎ合い輪になって「赤とんぼ」を合唱して交流を深め合う

記念行事に参加して(ご参加の皆さんのご感想)

強い連帯感

昨今、足腰が弱くなり、老化も進み、弱気になりがちですが、そんなとき、党が非合法だった時代、命がけで闘った先人たちのことを思うと、身の引きしまる思いがいたします。
 今回、千代子を偲ぶ記念集会に参加して、墓所で千代子を千代子を慕う大勢の方々に囲まれ、みんな、それぞれ、故郷へ帰って活動するんだナ、と思うと、強い連帯感が湧いてきて、涙が出て困りました。勇気を貰うことができました。ありがとうございました。

(静岡県 ・ M さん)

話し振りに感動

さすがに作家の講演であり、聴衆を惹きつける話し振りには感心しました。「無言館の絵は、反戦だけでなく、人間本来の心の叫びである・・・」との、作家として己を飾らぬ人間味あふれた話し振りに感動を覚えました。
 大変良い企画をなされた皆様のご苦労に感謝申し上げ、たまたま聴き得た幸運を喜んでおります。ありがとうございました。

(茅野市 ・ I さん)

また、無言館へ

窪島先生のお話を聞いて、また、無言館へ行かせていただきたいと思いました。窪島先生のお話に、胸がいっぱいになりました。すばらしいお話、ありがとうございました。

(下諏訪町 ・ N さん)

戦争が許せません

千代子さんの墓碑前祭にはじめて参加させていただきました。お墓に手を合わせ、心から訴えました。”千代子さん、ついにあなたに逢いに東京からやってきました。うれしいです。こんにちは、長い長いことお逢いしたかったです。”
 素晴らしい記念碑にも合掌しました。私事ですが、亡き母は、奇しくも千代子さんと同年、1905年生まれ。そして私は、千代子。この名前とても好きになりました。
 私は、無言館へは3度訪れました。2度は日本共産党の中野区後援会、もう1度は今年、「おわら風の盆」の帰り道です。何度訪れても感動に心をゆささぶられました。
 誠一郎氏のお話は、さすが文学者ですね。まるで演劇をみるように、その場面が溢れるように再現されました。
 22歳の生涯を終えた村山槐多画家のこと(バラと少女)は、ぜひ見に行きたいです。つい昨日(9/22)、竹橋の国立近代美術館で念願の「ゴーギャン展」観てきたばかりです。野見山画伯の『祈りの画集』、亡くなった戦没画学生のご遺族を訪ねた話―「背中をさすった老母の手が焼きごてのように熱かった」―これは、強烈でした。戦没画学生の一人、一人の人生の実話、良かったです。
 「戦没画家の青年は、反戦・平和を描いたわけではない。愛する人を、心をこめて描いたのだ。」― その通りと思います。それ故に彼らの命を無残にうばった戦争が許せません。

(東京都 ・ B さん)

 
命あるものはみんなあらん限りに生きようとしているのですね・・・千代子最後の手紙より