澤地久枝さん同行記

澤地久枝さんの人柄に触れて

目次

澤地久枝さん 7月17日 同行記

先生と呼ぶと罰金ですよ

心臓手術を3回され、昨年7月ペースメーカーをいれており、今回の来諏も体調によっては、と心配していたが、上諏訪駅で元気な顔をみてほっとした。当方では、東京から同伴者を付けることを申し出ていたが、強く辞退された。そのため関係者で相談のうえ、東京の責任者・千代子研究者である藤田夫妻に隣の車両に乗ってもらい、万全をつくした。
 〈先生、この度はありがとうございます。地元でお世話する‥‥です〉(共産党後援会肩書きの名刺を出した)「先生と呼ぶと罰金ですよ」(著作の中でも書いているのを思い出す)〈先生すみませんが、会場の舞台や看板には先生と書いてしまってありますので‥‥〉「また先生と‥‥」
 駅は観光客でいっぱい。「澤地久枝さんですね、こんなところで会えてうれしい」、「テレビで見かける人ですね」、「9条の人ですね」と次々声がかかり、一緒の写真をとっていく。
 藤田氏と私が同乗し、前日コースを試行した青年N君の運転で墓・碑にむかう。

気さくで、やさしく

澤地さん(74歳)は、現在日本の知性・良心を代表する女性の一人。とても気さくで、やさしい方とすぐわかり、1月末内諾をいただいて以来長期間、神経をすり減らし、準備をしてきた心労が緩んだ。
 千代子のことは、『昭和史のおんな』〈著作=49歳〉、『女子党員獄中記』(復刻版)あとがき(51歳)などの仕事を通して関心を持たれていたことが、途中の会話でわかる。
 このうち、『女子党員獄中記』(復刻版)は、三多摩いしずえ会(森山良子事務局長)が発行したもの。澤地さんは「森山さんとは面識なく、この時はじめて、『澤地さんしか適任者はいないから書いてほしい』と懇願された」と話された。
 また、今回の講演にあたり送った、東栄蔵・藤森明・藤田廣登、こころざしの会発行の、千代子に関する出版物・資料を実によく読んでおられた。また独自にも調査をされていて、質問されて、こちらが分らないこともあった。千代子について講演会では触れられていないことも、折々、澤地さんの観点で話していただけた。

野菜が大好き

道すがら、花・草をみつけて話された。「よく沖縄を散歩するの。文化センター入口の白い花は、はじめてみるけれど、なんでしょう」
 地場産業・景色・方言などもよく知っていて聞かれた。「寒天・凍りもちはどうですか。寒天は健康によく、ところてんや沖縄の黒砂糖を使ってアンミツにする、初霜は毎日飲んでいるの」 (初霜は、みやげに甲子堂に頼んであったのでOKだ) 〈当地の寒さを利用して生産しています。諏訪市では廃業もありますが、寒天ブームで品薄のようです〉
 諏訪の野菜が話題となる。「自然の野菜を健康のため、日々愛好しているけれど、東京では手に入れるのに苦労するの」 〈私の家では、地元農家の直売野菜を買っています〉「うらやましい。買って行きたいわ」。
(ということで、後述のとおり、講演会後に買いに行くことになる)―澤地さんは、しその葉(ソーメンに入れるのだけれど、東京のしその葉は食べれない、と)・トマト・カボチャ・うり・ズッキーニ・なす・大根・きうりなど、4,000円ほどを買われた。

碑・墓前をまわる

昼ころ、碑・墓前に到着。東京・北海道など、遠来のバス2台が着いていない。
澤地さんは、下の平らな所で碑を眺めるつもりだったが、「今日は、体調良さそうなので上まで上がってみましょう」となり、あわてた。小泉・茅野・藤森夫人に介添えを、木島・藤田氏に同行と説明をたのみ、木島氏との写真も「ご自由に」となった。写真 千代子の墓前で手を合わせる澤地さん   「俗名伊藤千代子」と彫られた墓石の「建立者は?」と聞かれ、答えられなかった。「私は、お墓はかならず一周してみます」と澤地さん。
「千代子さんは、故郷諏訪に帰ってきて生きている。こんなに熱心に、みなさんに顕彰・弔われて幸せね。私は、これからは心安らかに眠らせてあげられるようにしたいと思っています。」
 「多喜二の碑は粗末で、多喜二に失礼。どういう人かの説明もない。千代子の碑に学び、応援したい。宮本百合子の碑はあるのかしら。後世に継承できるようにできれば‥‥」と話す澤地さん。
 遠来のバスが着き、澤地さんにかけよる人たち。講演への期待がいっぱいだ。

合併、良いことがありますか

昼食会場へ。「ここのおそば、おいしい。旬の野菜てんぷらも、おいしい。おいしいとこんなに食べられるのですね」〈来年五月、埼玉で招聘があるのですが〉 「来年のお話はできません。生きていられるか分からないし、心の負担になるからです。今年は9条関係でもいっぱいです。」「このあたりは、合併はどうですか。」 〈諏訪六市町村は、住民の意思で合併でなく自律の選択をしています。〉
 「それは、すばらしいですね。合併して、良いことが何かありますか。文化がこわれ、住民が粗末に扱われますよ。」 〈合併失敗の仕返しに、議員定数が削減されています。諏訪市は、23名が15名になりました。〉 「それはひどい。定数を減らすなんて最低の政治です。引かないでたたかわねば・・・」
 ――川上先生への気持ち。夫・浅野や義母・義妹との関係。短期間に入党し、急速に思想を高揚させていったこと。二歳で母が死去、愛され、甘えられることがとても少ない境遇に置かれた少女・千代子。早すぎる獄死ともいえる命。――澤地さんは、千代子についても、話された。

共感の拍手・喝采

文化センターに着く。会場を埋め尽くした1,000人超のみなさんの前で、100分の熱弁。澤地さんの話は共感の拍手・喝采に包まれた。「凛とした姿勢にエネルギーをもらった。」という女性たち。控え室では、旧満州で同じ体験をし、澤地さんの話に感涙した後藤咲子さんと「大変つらい思いをしましたね」としばし抱擁するお二人。感動の場面だった。
 午後5時、上諏訪駅発まで30分。「野菜直売所まで行けないかしら・・・」と澤地さん。文出のJA夢工房まで急いだ。買った野菜は私が預かり、宅急便で送ることにし、10分前に駅に着いた。「新鮮な野菜をおみやげにできてうれしい」
「1人で乗って帰れますから。」と、ホームでの見送りを辞退されるので、感謝し、別れた。
 私にとって、かつてなく多くを学んだ幸運な同行だった。
 野菜の梱包を手伝ってくれたJA夢工房の4人の女性たちは、澤地さんが講演に来ていることを知っていて、地元の野菜を買ってくれたことを喜んでいた。

大西健介記 (逝去されました)

パネル展を見る澤地さん

 パネル展は沢山の閲覧者でごった返していた。そこへ着物姿の気品のある女性が入ってきた。
「あっ!澤地さんだ!」ささやきが会場に広がって沢山の視線が澤地さんの方に向いた。
写真 パネル展を見る澤地さんと藤田さん 一緒に来た男性に「これ澤地さんの荷物だけれど預かって。」と重い荷物を受付に預けられた。この男性が、「時代の証言者伊藤千代子」(学習の友社)を書いた藤田廣登さんだとはあとで知った。
 澤地さんは、展示パネルを丁寧に見ていって展示版の向こうに廻ったところで入口に立っている私の視野から消えていった・・・。
 長い時間が過ぎて「展示室の皆さん講演会は、あと10分で始まります。ホールのほうへお越し下さい。」会場係が来て案内をした。沢山の人波がホールのほうへ流れていって展示室はまばらになっていった。
 私は、まだ預かったままある荷物に気を掛けながら、時計の針を見つめていた。
「澤地さん!あと5分で始まりますよ。」藤田さんが、ホールの方から迎えに来た。
やっと澤地さんが現れて荷物と一緒に、舞台横の控え室に移動していった。
普通なら講演の前など控え室で休みたいとおもうのに・・・
 ここには千代子の生き様がある。その生きた時代の背景と共に展示されている。その魅力に惹かれて開演5分前まで見ておられたのだろうと思う。
 澤地さんの千代子への思い入れを強く感じながら、私も期待に胸を膨らませて満席のホールへ移動した。

 H.Ito 記

澤地さんよりのおたより

前略
暑い日で、さすがに疲れましたが、さわやかな後味の一日でした。こまやかな御配慮に感謝します。
本日、野菜、安着、さっそく南瓜をいただきました。予想以上の美味で、妹と一つずつわけたのですが、もっと買うべきだったと欲ばっています。
配達料、ご迷惑をかけました。
またラベンダーのドライフラワー、ありがとうございます。
調査が主の仕事のため、税務署に教えられて、法人を作っていますので、その領収書を同封します。
これから会の約束のある方などが、遠くから参加しておられました。
無事にお役を果たして、ほっとしています。そばも美味、野菜はなつかしい味がします。
ご好意が身にしみます。
お世話になった皆様へよろしくお伝え下さい。
                     (有) 久枝
                     代表取締役
                         澤地久枝
大西健介様

 
命あるものはみんなあらん限りに生きようとしているのですね・・・千代子最後の手紙より