今年の「墓参と顕彰碑前祭・今日を語る会」は、核廃絶を訴えてご活躍中の藤森俊希さんを講師にお願いしましたが、急なご事情により参加頂けなくなりました。
このためヒバクシャ国際署名長野県連絡会の制作したDVD「藤森俊希ビデオメッセージ 核なき世界―子供たちの明るい未来に向けて―」を上映しました。
ご参集いただきありがとうございます。
顕彰碑が建立され、千代子こころざしの会が結成されて約4分の1世紀、いろいろなこと回想されます。 顕彰碑脇には当初無かったポストが設置されました。千代子の生涯をわかってもうための資料や、感想文の記入用紙を備えて置くためでした。しかし、感想文などは減ってきています。訪れる人の減少が原因かもしれません。
龍雲寺霊園内の墓碑も、この間、増えてきたことがわかります。千代子顕彰碑より上の位置には何もありませんでした。こんなところにも時間の経過が示されています。
今回は、大阪から来訪される方々がありました。昨日からすでに長野県内に入っています。「顕彰碑をお参りして、大阪へ帰りたい」と話されていました。私はいつも、「諏訪湖と蓼科山の良く
見える環境の良いところですよ」と宣伝に努めています。
昨年はビッグニュースが、いくつかありました。
昨年暮れ、千代子の墓を長年守り、「語り部」として活躍された伊藤義知さんが亡くなられたことは、大変残念なことでした。 しかし、その直後、『日刊しんぶん赤旗』紙に千代子の生涯と故郷のこと、顕彰活動のことが、ルポライターの現地記録として掲載されました。
また、発刊された『湖南村誌』に3人の湖南村出身者(知識人)の一人として千代子が採りあげられ、地域誌にその足跡と業績が記された、記念すべき年でもありました。
顕彰碑の碑文を彩っていた白色線も大分色褪せてきました。白色線の修復を今年の目標にしたいと考えています。
今年は湖南公民館で語る会を開きました。
宮坂良夫さん=党市委員長、上田秀昭さん=党地区委員長、木嶋日出夫さん=弁護士・元衆議院議員、の挨拶の後、藤森俊希さんなどの活動ノーベル賞授賞式などを記録したDVD作品の鑑賞会を行いました。後藤 猛さん=諏訪市原水協が補足説明などした後、意見交換をして会を閉じました。
――木嶋日出夫さんの挨拶
みなさま、ご苦労様です。伊藤千代子さんの顕彰碑を建立したのは、今から21年前になります。国会議員をやっていた関係から、実行委員長を仰せつかりました。
宮本顕治さん
時の流れは速いなあと感じています。20年前にふさふさしていた髪の毛も、ごらんのように薄くなってきています。
伊藤千代子さんという、こんなに素晴らしい活動家がいたということ、3・15の弾圧で若い命(24歳)を獄中で奪われたということ、――を、私自身は知りませんでした。
本当に知ったのは日本共産党委員長だった宮本顕治さんから、戦前の4人の女性闘士の紹介があった時でした。その中に「伊藤千代子」の名前があったのです。諏訪の平に〝そんなすごい人がいたのか〟と、目を開かれたわけです。
しかし、実際は、今は亡き茅野の藤森明さんなどが、千代子さんのたたかいを掘り起こした実績が、すでにあったわけです。それを知る多くのみなさんの力が、一つになりました。
我々は、日本の歴史・郷土の歴史を学ぶ必要があります。二度とあのような時代を繰り返してはなりません。モノの言えない時代にも頑張り抜いた人が、諏訪の地にもいたんだ、ということを、多くの人に知ってもらうことが、暗黒の時代を作らせない力になる、ということに想いを込めて顕彰碑を造らせていただいた次第です。
戦前回帰を叫ぶ
その後、安倍晋三なる者が、総理大臣を長期に独占しています。こんなに長い間、独占するということは、ファシストですよ。憲法擁護の立場にあり、責任のある者が、自ら改憲を叫ぶ姿。これは明確な「戦前回帰」ですよね。こんな時代が来るとは、思ってもいませんでした。
こうした人物が自衛隊を『軍隊化』し、軍国主義が復活するような社会を目指しています。これは何としても、千代子さんの集まりを契機に、戦前・戦後の歴史を学び起こして、「戦前回帰NṐ」の想いを新たにする日とすることが、重要だと思えてなりません。
継続は力
「継続は力」です。毎年この日に集会を開くこと、継続することが、大事だと思います。千代子さんの命日にこういう集会を地元で開催できたことを、うれしく思います。
また、可能な限り、若い世代に参加していただく努力をすることが、我々に求められているのではないか、と思います。どの集まりで見渡してみても、高齢の方々の姿が多いというのは、あまり良い状況だとはいえませんね。
千代子さんを諏訪市だけの〝英雄〟に留めていてはいけません。諏訪地方6市町村のみなさんにとっての「大先輩だ」と言えるように、顕彰行事を大きく発展させていただきたい。
県内では、上田の「山宣会」と、諏訪の「千代子顕彰行事」が、双璧だと思います。戦前・戦後の歴史を学ぶ、全県・全国的連携に発展することを希望しています。
――講演に代えて 諏訪市原水協事務局 後藤猛さん
語る会には被団協事務局次長=長野県原爆被害者の会(長友会)会長の藤森俊樹さんの講演が予定されていましたが、怪我をされて入院することになり講演が出来なくなってしまいました。私自身それを楽しみにしていたので残念であり、一日も早い回復を願うほかありませんた。
そのような状況の中で不肖私がその代役を務めることとなった次第です。
俊希さんのようにはいかないが精一杯やろう、と思いました。
まず企画・制作「藤森俊樹ビデオメッセージ制作委員会」協力ヒバクシャ国際署名長野県推進連絡会によって完成した DVD“ 藤森俊樹の伝言―きのこ雲の下僕は1歳だった―”(20分)を視聴しました。
この DVD は長野県内の希望する小中学校に寄贈されるとのこと。 DVD の収録は諏訪市原水協が6月に開催した豊田公民館での原爆写真展で取材したこともあり、とりわけ関心が高かったと思います。
平均年齢82歳を超えた被爆者の切なる願い=“生きているうちに核兵器のない世界を”との俊樹さんの話、また全国で被爆者健康手帳所持者がこの1年間で9762人減少しているとの俊樹さんの話を紹介しました。
長野県では手帳所持者が117人から106人となっている状況を話し、私の父(京次郎)の被爆者健康手帳(更新済)を回覧してもらいました。
昨年(2017年)は、大きな出来事がありました。7月7日、国連で122ヶ国の賛成で“核兵器禁止条約”が成立し、10月6日、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞しました。
2018年9月24日現在、核兵器禁止条約署名国60・批准国15(10月23日現在署名国69ヶ国批准国19ヶ国)となっていることを話しました。
大量破壊兵器関連条約の批准発効までの期間は、生物兵器禁止条約が3年、化学兵器禁止条約が4年4ヶ月かかっています。これはICANによれば、早いテンポで進行しており、条約は来年後半に発効すると見込んでいることを合わせて私から報告しました。核兵器禁止条約は批准国が50になれば90日後に発効します。
いざ発効すれば、かたくなに署名も批准もしない日本政府の立場は、ますます国際的に孤立を深めます。戦争による唯一の被爆国日本で“ヒバクシャ国際署名”を広げることを訴えました。
非常につたない報告でしたが10月18日から20日、ここ湖南公民館で原爆写真展を計画しており、「ご来場を」と訴えて報告を終了しました。
今年は、行事に合せて「伊藤千代子の歩んだ道~今を生きる若いあなたへのメッセージ~」を発刊し、参加された方などに配布しました。
これは、千代子の生きた時代背景と彼女の生きざまを簡潔にまとめたものです。
――3・15事件で治安維持法により拘束され闇の中に葬られようとした千代子に光を当てたのが諏訪高女在学中の恩師「歌人土屋文明」の短歌であった・・・。
「治安維持法」が「共謀罪法(改正組織犯罪処罰法)」と名を変えて国民を「もの言えぬ」社会に引きずり込もうとしています。
――治安維持法が侵略戦争への起点だったように、今新しい起点が用意されてしまった・・・
時代の流れに身を置きながらその流れを変えていける力を誰もが持っている。
そのことに気づくきっかけになって欲しい・・・
特に若い皆さんに読んでいただきたい一冊です。
今年は千代子が没して89年になります。
今日の日本は、伊藤千代子が身を挺して闘った~世界を巻き込んだ日本の侵略戦争~それを思い起こさせるような安倍内閣のアメリカべったりの政治により、大きな危機を迎えています。
しかし、アジアに始まった平和への希求への動きこそ平和な世界への希望です。
何よりも、ノーベル平和賞を受賞した核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)・また、核兵器禁止条約が採択されるなど、世界的に新しい潮流が生まれています。
今年は、国連会議でスピーチ・ノーベル平和賞受賞式に参列など核廃絶を訴えてご活躍中の「藤森俊希」さんを講師にお願いしました。
多くの皆さんのご参加をお願いします。
午前12時 龍雲寺霊園(諏訪市湖南 南真志野) 顕彰碑アクセス案内
終了後、「湖南公民館」に移動
午後1時開会
湖南公民館 長野県諏訪市湖南4038-6 Goole 地図(外部サイトへ)
講師 藤森 俊希 さん
(日本原水爆被害者団体協議会事務局次長)
藤森俊希さんプロフィール
1944年3月29日、広島市生まれ。祖父、父母、9人兄弟姉妹の12人の大家族の末弟。
8月6日、体調崩し母に背負われ病院に行く途中、川の土手の上で被爆。女学校1年の4女の姉は建物疎開に動員され、爆心地近くで被爆、遺体は見つかっていない。3番目の姉は7歳の次男をリンパ性急性白血病で亡くし、本人も56歳で亡くなった。
母は、毎年8月6日、涙を流しながら子どもたちに被爆体験を語った。つらい思いをなぜ話すかとの問いに「あんたらを同じ目にあわせとうないからじゃ」と語った。
広島の高校を卒業後、東京の大学に入学、在学中に就職、2006年62歳で定年退職し、長野県茅野市に移住。
2010年長野県原爆被害者の会会長。
2012年日本被団協事務局次長。
待望の地域誌がついに陽の目を見ました。『湖南村誌』です。湖南村誌編纂委員会によって2017年12月、刊行されました。B5版・総ページ926、(重さ2・2キログラム)、刊行決定から発刊まで30年以上かかったという労作です。
監修された武田安弘先生(県史編纂委員など・岡谷市)の「客観的に自分の言葉で、分かりやすく書くように」という指導の下、41名の執筆者によって執筆されました。「執筆者は殆どが後期高齢者、書くことが不慣れな人達で、悪戦苦闘・試行錯誤の連続」だったと「あとがき」に記されています。
諏訪市内旧村部4地区(四賀・中洲・湖南・豊田)の中では最後の発行となりましたが、上諏訪を含め諏訪市内全域の「地域誌」が揃いました。
『湖南村誌』で注目されるのは、「特記事項」という「節」が設けられ、そこに伊藤千代子と顕彰碑建立活動が、2ページ、約1,000字を使って記載されていることです。
伊藤千代子に関しては、24歳で病死するまでの生涯が、簡潔に記されています。
農家の長女として生まれた千代子が遭遇した母の急死、父母の離婚、養祖父の急死、母の実家へ引き取られた千代子。中洲小での平林たい子や担任・川上茂との出会い。諏訪高女での土屋文明との出会い。高島小で代用教員勤務のあと仙台の尚絅(しょうけい)女学校へ進み、さらに東京女子大へと進んだ千代子。それ以後の足跡は、次のように記されています。
――大正14年東京女子大に編入すると、大学内の社会諸科学研究会に参加し、社会変革をめざす運動に加わっていった。
――昭和2年(1927)岡谷の山一林組争議で製糸工女を支援し、大学で社会運動を指導していた浅野晃と再会して結婚するに至った。
――昭和3年共産党に入党し、1ヵ月後の「3・15事件」で治安維持法により逮捕、投獄され、当局の過酷な迫害に屈することなく闘った。昭和4年、24歳の若さで病死し、生涯を閉じた。
◇
「客観的に」「分かりやすく」書かれていますが、平林たい子・川上茂・土屋文明との出会いが、千代子の生涯にどう影響したのか、社会変革をめざす運動に加わっていった社会的背景は何か、などについての記述は見られません。しかし、これは紙数の制約や、地域誌としての制約に起因するものかも知れません。
先に触れた「特記事項」は、「湖南各区の自治発達史」の第5節に位置付けられています。しかし「特記事項」が設けられているのは大熊区と南真志野区だけで、他の区にはありません。しかも、そこに登場する人物は、宮芳平(大熊)と原輝美・伊藤千代子(南真志野)の3人だけです。
これは、「先人の努力に感謝し」「湖南村の特徴的事がらに重みを付け、記述する」という編纂方針に沿ったものと思われます。
宮芳平(明治26年生まれ、78歳で永眠)と原輝美(明治17年生まれ、82歳で永眠)は画家で、宮には『宮芳平画集』、原には油彩画「生糸工女」などがあります。この2人に肩を並べて収録されているのが伊藤千代子ということになります。
『長野県諏訪二葉高等学校七十年誌』(昭和52年刊)と『二葉高校百年のあゆみ』(平成20年刊)につづき、『湖南村誌』でも千代子が〝市民権〟を得たことは、うれしい限りです。
◇
千代子の生涯につづく「特記事項」の後半は、顕彰碑建立のいきさつについて記されています。
藤森明さんの著作『こころざしいまに生きて』の出版記念会で顕彰碑建立が決められたことを記したあと、――共産党主導の建立事業ではあったが、千代子の転校先の中洲出身の諏訪市長、千代子の生まれた南真志野出身の諏訪市市会議員、南真志野区長など党派を越えて「呼びかけ人」に名を連ねた。南真志野区でも用地提供など協力し――と、地域力を結集した〝超党派〟事業だったことが強調されています。 また、顕彰碑に関しては、――南真志野区の龍雲寺霊園に建てられた顕彰碑には、諏訪高等女学校時代の恩師である土屋文明が、千代子の死を惜しんで詠んだ歌3首が刻まれている――と、簡潔に記したあと、――2年後には、碑を守る「伊藤千代子こころざしの会」が結成され、「墓参と語る会」を継続して行なっている――と、「こころざしの会」の活動を紹介しています。
◇
『湖南村誌』刊行をいちばん心待ちにしていたのは、千代子の墓碑を守ってきた伊藤善知さんではないでしょうか。刊行を目前にした逝去(2017年11月13日)が悔やまれます。
(今井清水 2018年4月記)
2017年11月13日89歳でご逝去されました。
千代子が亡くなった次の年(昭和5年(1930))に生まれ、千代子の養祖母のおいであった善知さんは、伊藤家の跡を継いでいたお兄さんの死去に伴い、跡を引き継ぐこととなりそれ以来千代子の墓を守ってきました。
生前、その思いを語っていました。
「 私は、千代子さの50回忌まできちんと法事をやってきました。以前には思いもよらなかったことですが、共産党の人たちがこのように千代子さを顕彰してくれて、ほんとうに嬉しく思います。」
没後80年での伊藤さんの挨拶
2018年2月18日83歳でご逝去されました。
横沢さんには1997年、伊藤千代子顕彰碑の建立に携わっていただきました。
諏訪市上諏訪にアトリエがあり、諏訪湖畔公園には横澤さんが主催した諏訪湖国際彫刻シンポジュウム(1978年)の作品群が配置されています。 また、同じく湖畔に、「平和の塔」(2015年)を制作されました。
諏訪の地に建立された「伊藤千代子顕彰碑」と「平和の塔」は、日本と世界の、平和と進歩を静かに呼びかけています。
設計デザイナー横沢英一さん千代子碑について語る
伊藤千代子こころざしの会では、お二人のご逝去に、心より哀悼の念を表すとともに、安らかに永眠されますようお祈りいたします。
今年の「墓参と顕彰碑前祭・今日を語る会」は、突然の衆議院解散・総選挙のため当初の予定を大幅に変更しなければならばくなりました。
開催日間際での時間変更で遠来の方々、参加を予定されていた方々など皆様に大変ご迷惑をかけましたこと、お詫び申し上げます。
行事は、墓参・碑前祭を省略し個々に墓参いただくこととし、講演会のみの開催となりました。
今年は湖南公民館で講演会を開きました。
はじめに衆議院選挙に立候補を予定している毛利栄子さんにご挨拶いただいたあと、講演をお願いした北海道在住の宮田さんにプレゼンテーションソフトを駆使して熱く語っていただきました。
~伊藤千代子ら長野県と北海道をつなぐゆかりの人々~
講師 宮田 汎 さん
伊藤千代子さんは、北海道に来たことはありません。しかし、「千代子」と「北海道」とには、二つの接点があります。
第1は、千代子さんの選挙資金カンパです。1928(昭和3)年、最初の男子普通選挙が行われました。この時、長野県4区から藤森成吉、京都から山本宣治が立候補、山本宣治は当選しました。〔注=労農党は19万票(2%)、2名当選〕
この時、北海道では山本懸蔵が立候補。彼は、労農党中央委員でした。労働者に大変な人気があり、小樽の労働組合は、指導に来た山本を支持し、評議会支持に立場を変えるほどでした。〔注=当時、労働運動は労使協調の総同盟と、戦闘的な評議会とが競っていた〕労農党本部は「党員一人10銭を」と選挙カンパを呼びかけていました。千代子が卒業するためのお金が、ここにカンパされていたのではないかと私は思います。もし、千代子のカンパが無かったら、多喜二の、北海道での山本応援活動も、小説『東倶知安行』も生まれなかったにちがいないと思います。多喜二は、選対事務所でガリ切りをしたり、東倶知安へ行って応援演説をしたりしています。山本は、労働者のまち・手宮では13%の得票をしましたが、当選はできませんでした。
養父母に育てられた千代子は、諏訪高女に進みます。そこで土屋文明(校長)と出会い、修身の授業を受けます。普通、教育勅語などを一生懸命教えたものですが、土屋校長は違いました。修身の時間に松尾芭蕉の『更級紀行』の話をし、女学生たちは大変感銘を受けたようです。土屋文明のもとで千代子は、社会への目を開いていったのだと私は思います。
やがて上京した千代子は、社会主義研究会(社研)に入り、チューター(指導者)を務めていた東大出の浅野晃と出会います。千代子は、浅野に勧められて日本共産党に入党しました。この写真は、3・15弾圧事件の当日朝まで千代子がガリ切りをしていた文京区本郷3丁目ー4の住居跡です。千代子は、ここで党中央委員会の仕事をしていたのです。原稿を届けに行った千代子は、滝野川の印刷所で特高警察に逮捕・検挙され、市ヶ谷刑務所に送られました。
3・15事件での全国の検挙者数は1、600人、北海道では260人といわれています。しかし、「小樽だけで500人は検挙された」ともいわれ、「全国では4、000人くらいでは」という研究者もいます。国家による本格的な大弾圧で、女性被告への強姦もありました。千代子の急性肺炎発症は、獄中・病院での虐待を示すものでしょう。
「千代子」と「北海道」との第2の接点は、最後の手紙4通です。苫小牧市立中央図書館に、千代子が獄中から浅野すてさん(義母)などに出した4通の手紙が残っています。浅野晃が「私が死ぬまで公開しないで」と言って図書館に寄贈したものです。生きているうちに公開されたら困るわけです。残された手紙からは――(転向以前の浅野たちの発言に大いに励まされていたこと、それだけに)浅野の転向上申書に衝撃を受けたこと、しかし、動揺を克服し立ち直ったこと――を、読み取ることができます。1934(昭和4)年7月26日から29日の間のことです。純粋に日本の将来を考え、民衆のためにがんばろうとした、若い女性のいのちを縮めてしまったことは、本当に悔しい限りです。
1933(昭8)年2月4日、治安維持法を口実とした大弾圧がありました。侵略戦争の幕開けとなった2・4事件です。『信濃毎日新聞』は、「共産党系全線に弾圧 起訴77名に達す」と報じました。官憲・マスメディアは、この事件を「赤化教員事件」として全国に宣伝し、33年度中に小学校教員204人など、計743人が検挙されました。弾圧は1道3府37県に及び、長野県内でも永明小など17校49人が検挙されました。
長野県の農村では、蚕が暴落して長欠・欠食児が増加、教員給与も不払いが出るなど、深刻な社会矛盾に直面していました。こうした社会情勢を背景として、教労・新教に結集した教師たちは、「無産者児童教程」(指導案)を作成し、実践しました。〔注.教労=日本教育労働者組合。1932年、長野支部設立。新教=新興教育研究所。1931年、諏訪支部結成。〕2・4事件は、この動きを探知した官憲によって引き起こされた大弾圧事件でした。
北海道では1940(昭15)年、生活綴り方事件と生活図画事件が、前後して起きました。生活綴方事件は、北海道・東北が中心でした。
まず、生活綴方教育では、こんなことが有罪とされたのです。中井喜代之という教師は、寝小便を母親に叱られたことを書いた小1児童の綴方に、次のような「評」を書きました。「はずかしいことだが、元気よく書けましたね。正直に自分のしたことをそのまま書くと、綴方は上手になるね」と。ところが、この指導が「生活真実の暗黒面を探索、その真相を暴露する方法を通し、階級意識に芽生えしむることを狙う」ものだとして有罪になりました。この事件では170人の先生方が検挙されました。
次に、北海道だけですが生活図画事件では26人が検挙されました。この絵は、本間勝四郎(小学校教師)が、寒さに抵抗しながら登校する野性的な児童を描いたものです。この絵に対し、検事は「鑑賞を深めていけば児童の姿の裏にある作者の思想・意欲を突き止めることは不可能ではない」、共産主義の宣伝だとして、懲役2年6ヵ月の判決が下りました。
ここで、長野県に縁のある人を紹介しましょう。島田美成です。戦後、小布施に住み、信州大学教育学部で美術の教師をしていた方です。偶然「日本陸軍の軍紀及び風紀」(アメリカ国立公文書館所蔵)という文書を発見、島田のことが分かってきました。それによると――1.旭中教師・上野に影響され、左翼文学を読み、新協劇団に参加し階級闘争の不可避性を吹き込まれた。2.共産主義団体「北風美術協会」(正しくは北風画会)に加盟、左翼思想の絵画を描いた――などとあります。息子さんの話では、島田は1917(大6)年、北海道富良野に生まれ、旭川中から1937(昭12)年、東京美術学校入学。1942(昭17)年、東部18部隊へ入隊、同年6月、生活図画事件で逮捕、軍法会議にかけられたということです。晩年は、上田市に住みました。
1941(昭16)年12月8日、天皇が米英に宣戦布告した日、札幌で宮澤弘幸(北大生)が「スパイ容疑」で逮捕される事件が起きました。軍機保護法違反とされ、懲役15年の判決を受けました。網走刑務所から宮城刑務所へと移され、1945(昭20)年10月10日(全国の思想犯が一斉に釈放された日)にようやく釈放されたのです。すっかり老け込んでしまった宮澤は、無念にも釈放1年半後に亡くなりました。東京・豊多摩に生まれた宮澤は1937(昭12)年、北大に入学し、6ヵ国の教師・学生のサークル「心の友」に参加していました。宮澤は好奇心旺盛な青年で、北大在学中、各地をよく旅行して歩いています。1940(昭15)年~41(昭16)年には二風谷、千島、樺太、満州を旅行し、旅行記を北大新聞に発表しています。逮捕の決め手となったのは、「根室に海軍飛行場があることを口外した」というもの。これは灯台監視船に乗せてもらったときの見聞を、他人に話したものでした。裁判記録には、証拠も、なぜ軍事機密なのかも判示されていません。
軍機保護法事件に連座した人の中に、黒岩喜久雄がいます。黒岩は1918(大7)年、長野市に生まれ、旧制長野中学を卒業。1934(昭9)年、農学部に進学。この間、レーン夫妻の家に出入り。1941(昭16)年、繰り上げ卒業となりました。その直後に検挙され、札幌地裁で懲役2年、執行猶予5年の判決を受けました。1939(昭14)年、彼が南洋群島見学の際に見聞した海軍飛行場について、レーン夫妻に話したことが逮捕のきっかけでした。レーン夫妻も懲役15年(夫)・12年(妻)の判決でしたが、帰国させられたため、実際の刑は受けていません。
もう一つ、「島流し事件」というのもありました。「思想犯は島流しにして殺してしまおう」という事件です。東条内閣は1942(昭17)年8月、「非転向者と準転向者の中で、国内居住不適当者は、南方諸島の業務に当たらせる」ことを閣議決定しました。内務省は1945(昭20)年8月14日(天皇のポツダム宣言受諾放送の前日)、「全員内地に生きて返さぬように処置を」との秘密電報を発しています。長野県には、この事件の被害者がいます。1944(昭19)年7月に送られた大鹿村の東茂(翌年9月、戦病死)と、小沢勝(1945年9月、戦死)。さらに1944年(昭19)年8月に送られた中川村の金倉豊四郎(船が撃沈され、死亡)です。
さらにもう一人、関係者がいるのです。長野県出身者・寺沢廸(みち)男についてお話しします。寺沢は1907(明40)年、中野町(現中野市)に生まれ、北海道へ渡り、夕張などで労働者として働きました。1928(昭3)年頃、アナーキストからボルシェヴィキ派に転じ、旭川で活動しました。そこで旭川出版労組や全協北海道地方協議会の組織化に献身。その全協が弾圧され、懲役2年半の判決を受けたのは、1930(昭5)年12月でした。寺沢は刑務所内で監獄細胞(党の基礎組織)を組織して獄中でたたかいました。出獄後も反戦運動に力を注いだため、「島流し」となりました。戦後は産別会議に参加、1952(昭27)年、水戸に移ってからは反核・反原発運動に尽力。1998(平10)年、亡くなりました。
元民主主義文学同盟の議長だった文学者・窪田精の作品『流人島にて』に、島流しに遭う話が出てきます。島流しには、受刑者の島送りという「前史」があります。海軍省は1939(昭14)年、「南洋の空港建設に受刑者2、000人を出役させるよう」司法省に要請しています。テニアン、ウオッゼ、トラックなどへ、約3、800人が送られています。窪田精もその体験者でした。その後「島送り」は「島流し」へと発展し、1942(昭17)年には治安維持法犠牲者ら100人余が、ミンダナオ島開拓に従事させられ、その3分の2は現地で死亡したと言われています。
「共謀罪法は治安維持法の現代版だ」と新聞が書きました。本当にそうです。共謀罪法は、組織犯罪準備罪法の名で国会に提出され、成立しました。二つの法律を比べてみましょう。法律の対象について、共謀罪法は「組織的犯罪集団」と規定し、治安維持法は「国体変革目的結社、私有財産制否認目的結社」と規定しています。この規定は、どちらも対象が曖昧です。戦前の裁判においても、この規定については全く判示されませんでした。結社の目的のための協議、遂行のための行為、さらに、その人の思想・内心・対話を処罰の対象とすること、自首したら刑を軽減・免除することなど、共謀罪法と治安維持法は瓜二つです。共謀罪法は、治安維持法に詳しい人間が草案を作ったと私は考えます。「壁に耳あり、障子に目あり、石に口あり」という戦前の監視社会を復活させるもの、それが共謀罪法です。金田勝年法務大臣(当時)は、2017(平29)年6月、衆議院法務委員会で「治安維持法は適法に制定され、拘留・拘禁、刑の執行も適法だった。賠償理由は無く、謝罪・実態調査も不要だ」と発言しています。これは、国際法違反の戦争に反対した多くの人々を、法の乱用と暴力で抑圧した歴史をまったく認めようとしない、驚くべき態度です。
侵略戦争を推進し、人権も認めない天皇制国家の下で、命を懸けてたたかい、抵抗した人たちがいたこと、そういう歴史があったことを、日本の近現代史にしっかり位置付け、顕彰することが大切です。こういう緊迫した社会情勢の中で、間違っても核戦争を起こしてはいけません。皆さん、頑張ろうではありませんか。(了)
今年は千代子が没して88年になります。
千代子は、侵略戦争反対、民主主義と国民生活向上のために果敢にたたかいました。
しかし、治安維持法で捕えられ24歳の若さでその生涯を奪われました。
治安維持法は、弾圧の対象を共産党員から労農運動、文化運動へと際限なく拡大し、国民の“内心の自由”も奪っていき、侵略戦争へ国民を送り出していきました。
今、共謀罪や改憲策動など、歴史の逆流に直面し多くの人が安倍政権の動向に危機を感じ取っているのではないでしょうか。
「こころざしの会」では。千代子の生き方を問いかけることは、今日的意義が大きいと考えます。
今年は、顕彰碑建立21年目という“新しい出発の年”
こころざしの会も会員の世代継承を目指す“新しい出発の年”と位置付けています。
多くの皆さんのご参加をお願いします。
午後 1時 龍雲寺霊園(諏訪市湖南 南真志野) 顕彰碑アクセス案内
会長挨拶・経過報告・他
終了後、「湖南公民館」に移動
午後1時開会、午後2時30分閉会といたします。
午後2時 湖南公民館 長野県諏訪市湖南4038-6 Goole 地図(外部サイトへ)
「『日本国憲法』を築いた治安維持法犠牲者」
―伊藤千代子ら長野と北海道つなぐゆかりの人々を中心に―
講師 宮田 汎 さん
現役職
治安維持法国賠同盟中央本部副会長
治安維持法国賠同盟北海道本部会長
戦争をさせない市民の風・江別代表
市民と野党の共同を求める北海道5区の会共同代表
憲法9条を考える江別実行委員会委員
北海道名寄高等学校8期札幌会会長
主な経歴
1937(昭和12)年、樺太豊原市生まれ
北海道立高等学校教諭(名寄農業 など)
大学非常勤講師(北大・岩見沢教育大・酪農学園大など5校)
主な著書
『朔北の青春にかけた人びと―北海道初の治安維持法弾圧・集産党事件をめぐって』(増補版)
『生活図画事件―戦時下の民主教育』
『夜明けをめざした人々―治安維持法、北からの告発』(共著)
『川端ヨネの生涯―函館の労働運動黎明期を支え戦時下を必死に生きた女性』
他 多数の治安維持法犠牲者のほりおこし論考を発表
まとめ・閉会 終了予定 4時
参加費 無料 (会の運営費は募金で賄います)
主催 伊藤千代子こころざしの会
事務局長 三澤 実
多くの皆様のご参加お願いいたします。
9月27日、諏訪市役所内の記者クラブで、木嶋日出夫実行委員長ほか関係役員で記者会見を行いました。
委員長は、「いま、憲法9条を改悪し日本をふたたび戦争のできる国にしようという動きが強まっています。このようなとき、戦前の戦争前夜の伊藤千代子らのたたかいを掘り下げることは大変意義のあること」とのべマスコミの支援も要請しました。
また、若い人々はじめ多くの人々の参加をと呼びかけました。
どうぞ、本庄豊さんの記念公演をお聞きください
講演では生涯にわたる長期の研究の中から日本の近代史に関わる事柄を縦横に語ってくれる。・・大いに期待しましょう。
本年は「伊藤千代子顕彰碑建立」20年 を迎えます。
2016年度行事は、実行委員会を立ち上げ次の内容で実施することになりました。多くの皆さんのご参加をお願いします。
2016年10月1日(土曜日)
例年、伊藤千代子の命日に合わせて9月に行われるのですが、今年諏訪地方ではは御柱祭が行われ、各村落でも「小宮の御柱」が行われます、大社だけでなく祠、個人の屋敷神に至るまで4月から9月頃まで「御柱祭」一色になります。これを避けるため10月の実施となりました。
午前 11時より(現地集合)
墓参碑前祭
(諏訪市湖南 南真志野 龍雲寺霊園)
終了後、「こころのひろば」に移動
※この間に昼食(各自ご用意ください)
午後1時30分より
講演と語る会
記念講演
「伊藤千代子を次の世代へ~山本宣治研究から見えてきたもの」
講師 本庄 豊さん
立命館宇治中学校・高等学校教諭、立命館大学兼任講師
京都総評宇治城陽久御山地区労働組合協議会議長
宇治山宣会、長野山宣会、東京山宣会、伊勢崎多喜二祭などで記念講演
交流・懇談 終了予定 4時
参加費 無料 (会の運営費は募金で賄います)
会場 こころのひろば
〒392-0022
長野県諏訪市高島1丁目21番14号(諏訪市役所 北東側)
電話 0266-54-5610
連絡先
実行委員長 木嶋 日出夫
事務局長 藤森 守 090-4022-7608
事務局 三澤 実
会場のご案内はこちらからどうぞ (Google Maps)
ご案内用チラシ
案内用チラシで多数お誘いいただきご参加ください(PDF)
本庄 豊 (ほんじょう ゆたか)
伊藤千代子と山本宣治、その生きた時代と様相が似かよってきた今日、何を教訓とすべきか、本庄さんは多面的に現代の課題を語ってくれます。
略歴
1954年、群馬県碓氷郡松井田町(旧中山道の宿場町・現在安中市)生まれ。
父の仕事の関係で前橋市曲輪町に転居。県立前橋高校を経て、東京都立大学卒。京都府城陽市や宇治市の公立中学校で社会科を教えるかたわら、非行問題に取り組む。現在立命館宇治中学校・高等学校教諭・立命館大学講師(非常勤)。京都歴史教育者協議会副会長、専門研究は1920年代日本社会運動史。
趣味は木工作、パステル画、町並み散策、野外食など。
主な著書に、『戦争孤児』(新日本出版社、2016年)、『魯迅の愛した内山書店』(同、2014年)、『煌きの章~多喜二くん、山宣さんへ』(かもがわ出版、2012年)。『パウリスタの風』(群青社)『ポランの広場-瓦解した「宮澤賢治の理想郷』(かもがわ出版、2007年)、『島崎藤村の姪、こま子の「新生」・山本宣治と1920年代の女たち』(宇治山宣会、2005年、*第13回紫式部市民文化賞選考委員特別賞受賞作)、『ここから始める平租学』(つむぎ出版、2004年)、『新ぼくらの太平洋戦争』(かもがわ出版、2003年)(以上、単著)
『先生、ホンネを聞かせて!』(群青社・共著)『女たちの京都・史跡をたずねて』(かもがわ出版・編集責任者)、『京都新発見・歴史をたずねて』(かもがわ出版・編集責任者)、『シリーズ憲法9条』第1巻(汐文社)、『世界と出会う日本の歴史』第6巻(ほるぷ出版)、『石碑と銅像で読む近代日本の戦争』(高文研)、『100問100答日本の歴史5・近現代』(河出書房新社)、『人物で読む近現代史・下』(青木書店)など多数。
今回の「伊藤千代子 顕彰碑建立20年のつどい」」の講師にお願いしている本庄豊さんは、近著書『山本宣治――人が輝くとき』の終章「山宣研究の目的と現在の情勢」の中で書いています。
「私の山宣研究は30年におよびますが、研究の目的ともいえる『何がわかったら山宣がわかったことになるのか』、『なぜ山宣を研究しているのか』という根源的な二つの問いを胸に抱いたまま歳月は過ぎていきました」。
転機があったようです。「私の山宣研究における閉塞状況は、島崎藤村の姪、こま子の”新生”について調べたことをきっかけに打開されました。藤村の小説”新生”のモデル島崎こま子と山本宣治とは、面識があるという程度の関係ですが、宇治での山宣葬のなかにいたこま子の姿を、当時の映像フイルムのなかに発見したことを通して、1920年代という時代をこま子と山宣が共有していたことを、私は実感できたのでした。・・」と書いています。
「時代を共有する」とは、同時代を生きていた、ということを言っていると思いますが、そのことをいえば、伊藤千代子も同様です。
本庄さんは締めくくりで書いています。「・・こうして、山宣研究は過去の社会運動史研究だけではなく、現代の課題とも直接結びつくことになりました。現代の情勢がふたたび山宣を呼び覚ましたのです。・・」と。
伊藤千代子顕彰碑建立20年のことについて言えば、山本宣治と同じことが言えるわけで、本庄さんの著書に感銘しました。
(2016年8月7日 田中康祺)
※「新すわ」は、日本共産党諏訪市委員会が発行する地域週刊民報でこの8月、2140号を数えます。
「千代子こころざしの会」は9月23日(水・秋分の日)、恒例の〈墓参・碑前祭〉と〈語る集い〉を行ないました。
晴天に恵まれた、諏訪湖を見下ろす高台(湖南北真志野)での〈墓参・碑前祭〉は、三沢実さん(会・事務局長)・木島日出夫さん(顕彰碑建立時の実行委員長・弁護士)・藤森守さん(党・諏訪市委員長)の挨拶のあと、参加者一同、千代子の墓石に線香を供え、顕彰碑に花を手向けました。
挨拶で木島さんは──戦争法の成立は、千代子の生きた時代を彷彿させ、感慨深いものがあります。安倍政治反対のたたかいは広がっており、立ち上がった若者たちに日本の希望が見えます。来年は顕彰碑建立20年を迎えます。《継続は力なり》、この運動を地域に広く根づかせましょう──と呼びかけました。
〈語る集い〉は、会場を「こころのひろば」(市役所裏口前)に移して開かれました。三沢さんから「来年は顕彰運動20年を迎えます。どのような取り組みにしていくのか、お考えをお聞かせください。今日は〞語る会〟です。自分の中の千代子、戦争への足音など、語り合っていただきたい」との挨拶があり、参加者から多彩な発言がありました。
● 継承の形態について提起します。1同窓会・生誕地域を視野に会員を広げる。2地域の人物や資料を発掘する。3文学作品の朗読会。4映画・演劇・歌を取り込んだ企画。千代子の生涯の映画化。5顕彰碑・生家跡などの維持・保存。記念館的施設の建設──などを考えていきたい。
● 1来年は広い範囲の実行委員会で企画・運営したい。2講演プラス文化的・活動的企画を採り入れたい。3事務局の若返りが必要です。4千代子ガイドブックを作成したい。
● 千代子さんは諏訪地方全体で顕彰すべき、すばらしい人です。来年は、富士見から岡谷まで広く参加を訴えていただきたい。
ここでは三人の発言を抽出・掲載しました。来年度の方向については、実行委員会・事務局で、来年が御柱祭の年になることも考慮し、検討する予定です。
● 私は、初めて千代子顕彰碑まで行って見ました。郷土の先人の足跡を今に生かしていくことが大切です。また、戦争体験者の話を聞き、今に生かしていくことも大切。お互いがんばりましょう。
● 顕彰碑周辺に植えたジシバリが増えています。手紙公開のとき、諏訪から3人で参加しました。12万人を上回る運動をしていかないと、千代子のこころざしが生かされないと思っています。
● 最近、99歳の方の戦争体験記を読みました。この方は「孫達をひどい目に合わせないために書いた」と締めくくっています。私は、ジシバリのように根強くスタンディングを続けたい。
● 千代子の入党した昭和3年は、私の父が生まれた年。浅野晃(千代子の夫)の活動した勇払は、私の生まれたところ。
不思議な縁です。いま、戦争法で多くの心がいっしょになろうとしています。
● 私の家の壁に戦争立法反対のポスタが張ってあります。安倍首相は「これからは経済」と言っていますが、岸政治の継承を狙っているのだと思います。戦争をさせない運動をがんばっていきたい。
● 私は、父が治安維持法に触れるような活動をしていたことを敗戦まで知りませんでした。上京し、中央合唱団に入り、〞労働者国民のために〟と思って活動してきました。まだまだ私もがんばりたい。
● 私の世代は戦争への認識が弱いと感じます。戦争体験者の話を聞くことで、理解は深まると思います。安倍暴走の流れに対しては、反対の流れが必ず出て来ると思います。
ここでは七人の発言を抽出・掲載しました。〝戦争反対、こころざしを引き継いでがんばる〟という熱意の響き合う集いでした。
──私たちはいま、おそらく日本の歴史の中でもめったに来ない、困難な事態の中で生きています。
──日本人が二度と戦争で殺したり、殺されたりすることがあってはならない。かなり、頑張らないといけないようです。伊藤千代子さんは、全生涯を通して、そのことを私たちに語りかけていると信じます。
澤地久枝さんが「生誕百年記念講演」で語っていた言葉が、昨日のように思い出されます。
メッセージ(抄)
本日、伊藤千代子墓前・碑前祭に併せ「記念のつどい」開催に当たり、ご参集のみなさんに心からの敬意と連帯の挨拶を送ります。
想えば、87年前の1928(昭和3)年3月15日、伊藤千代子は、東京・湯島の隠れ家で、前夜から徹夜で、共産党の政治大会の方針草案をガリ切りし、秘密印刷所へ届ける任務遂行中に特高警察によって逮捕連行、投獄されました。
アベ自公政権が「戦争遂行法」を強行した今日、戦前、天皇絶対の専制支配下において、今日とは比較できない困難な状況に立ち向かった伊藤千代子たちの先駆的な活動とたたかいに想いをいたし、眼前の困難にたじろがず、戦後、平和民主憲法の下で70年間培ってきた、たたかいの到達点に確信を持ち、新しい救国の国民戦線、救国連合政府の樹立に向かって進むことが、千代子たちの遺志を活かすことにつながります。
わたしたちは、来年予定される「建碑20周年事業」に賛同し、協同の事業と位置付けて取り組みます。
この「会」のますますの発展を期待します。
2015年9月23日
伊藤千代子の会(在京)事務局長 藤田廣登
メッセージ(抄)
「伊藤千代子最後の手紙公開10周年の集い」成功のために、三沢実事務局長を派遣していただき、心から感謝の意志をお伝えいたします。この地に足跡が無いにもかかわらず、行事の度に何百人という人が集い、心に感動の火をともし、それぞれの人生に大きな励ましを与えているのは、伊藤千代子の生きざまと、こころざしの清冽さ、人民の幸せと平和を願うたたかいの強固さの故であります。
集会や講演を行なう度に、その火は広がっています。初めて参加したあるご婦人は、「治安維持法を初めて知った。署名をやらせていただきたい」と申し入れがあり、500名近い治安維持法国賠同盟の署名を集めたといいます。これは一人の意志の変化であります。取り組みの幅も広がっています。今年は、新日本歌人の山本司氏を講師に「土屋文明と伊藤千代子について」と題して素晴らしい講演を行なったのでございます。これらの取り組みは、遠い諏訪地方の先進的取り組みがあったからでございます。今後とも北の大地に根を張り、運動を続けていきますことをお誓いいたします。
いまわしい戦争法案は可決されましたが、たたかいはこれからです。伊藤千代子の理性と情熱に学んで、戦争法廃止連合政府を目指して共にがんばりましょう。ナナカマドの実赤く色づく苫小牧の地から、心を込めて連帯のご挨拶を送ります。
2015年9月23日 伊藤千代子を知る会 事務局長・畠山忠弘
「伊藤千代子こころざしの会」の三沢実事務局長は、「会」を代表して2015年7月11日から13日まで北海道苫小牧市を訪問し、
「伊藤千代子最後の手紙公開10周年記念の集い」に参加しました。
熱気あふれる集会に感動して帰郷した三沢さんは、その報告を民報『新すわ』に寄稿しました。ポイントを紹介します。
──夫であった浅野晃が治安維持法で逮捕され、獄に繋がれた直後、伊藤千代子も逮捕されました。夫の転向と自身への転向工作に直面した千代子。手紙は、獄中闘争と拷問の末、死に追いやられた千代子が、獄中から届けた86年前のものです。
──戦争推進勢力に屈服した浅野・水野は釈放され、居を苫小牧へ移しました。浅野は、勇払という地域で文化活動をしながらモノ書き生活へ。そこで再婚。でも伊藤千代子の手紙を破棄できず、再婚後も密かに持ち続け、結局、苫小牧市の図書館へ預けたものです。
──浅野の存在を知り、調査を続けていた畠山忠弘さん(当時・党市議)は、図書館に密かに預けられている事実を突き止めました。
〔補注〕突き止めるきっかけとなったのは、「苫小牧図書館にあるかもしれな
い、ぜひ、探して欲しい」との、藤田廣登さんからの手紙でした。
──畠山さんは市議会で質問を繰り返し、市民運動として盛り上げるなか、市も事実を認め、十年前に公開に至ったものです。苫小牧空港で、待っていてくれた畠山さんと再会した私は、そのあと図書館で久しぶりに〈最後の手紙4通〉と対面しました。
──記念の集いは7月12日、苫小牧市民会館三階ホールで始まり、名雪清治実行委員長(元北海道歴史教育者協議会会長)は「〈戦争法案〉の強行突破を前に開かれる今回は、千代子が命をかけてたたかった戦争反対の運動を、権力が治安維持法によって圧殺した歴史から真剣に学ぶ良い機会としたい」と開会挨拶。
──つづいて畠山忠弘さん(伊藤千代子を知る会事務局長)が「伊藤千代子のこころざしに学ぶもの」と題して講演。手紙の持つ意義について、次のように話されました。
──「千代子の最期がどうであったか、なぜ拘禁性精神病になったのか、などを明らかにする、千代子自身が書いた唯一の資料です。とくに『お母さん、次便で詳しくと申し上げましたが、もうその必要がなくなってしまいました。理屈がいやになりました』との書き出しから始まる最後の手紙(1929年7月29日付)は、三日前に書いた手紙の後、夫である浅野晃の『転向上申書』を検事から見せられ、千代子も強く転向を迫られた後のものです。千代子は転向を拒否、夫であり同志である浅野への怒り、悲しみのなかで書いたのが最後の手紙です」。
──「手紙の後半には、『私も真剣に準備している。せんさんは、もうずんずん歩いている』という記述があります。(注=平林せんは、千代子の母の生家のある中金子で生まれ、千代子の従妹に当たる)党の方針に沿って活動している従妹の姿に重ね、「私も」と心情を記したものです」。
──「最後の手紙は、『美しく晴れた夏の朝、又』と書いて終わっています。「又」は次便でお母さんに心の内を書きます、ということだと考えられます」。
──「伊藤千代子は、松沢病院へ護送され入院、警察の監視下に。後に病院に勤務した秋元波留夫氏によって病状は〈治安維持法特有の拷問・拘禁による発症〉と診断されました。圧力が緩めば回復に向かうということです」。
──「長く厳しい獄中生活で体力が弱っていた千代子は、錆色の痰を大量に喀血し、9月24日死去。人民の平和と幸せを求めて転向を拒否、こころざしを貫いた千代子でした」。
──畠山さんは「千代子のこころざしに学び、現在の『戦争立法』廃案のため、奮闘しよう」と講演を結びました。
──私は「千代子の故郷=諏訪から来ました。千代子が来たことも無い苫小牧で、このように熱心な会が開かれ、非常に質の高い講演が行われ、広い層の関心を引き付けていることに感動しました。手紙があることの意義を改めて認識しました」と挨拶。広い会場から熱気ある拍手をいただきました。
──次は宮田汎(国賠同盟副会長)さんの一時間の講演「胆振(いぶり)ゆかりの女性たち」。採り上げたのは、相沢良・山田キヨ・柄沢と志子など7名。宮田さんは『この胆振地方でも伊藤千代子のようにたたかった多くの人々がいた。これらのたたかいと犠牲があって戦後の平和憲法の基礎が作られたのであった』と講演を結びました。
──苫小牧短歌クラブの入谷寿一代表が『戦争の足音が聞こえて来るなか、千代子や話された女性たちの意を受け継いでがんばりましょう』と閉会の挨拶をされました。
──帰って来て考えることは、「これからの伊藤千代子顕彰運動をどうすすめるか?」ということです。苫小牧で同宿した藤田広登さんとは諏訪―東京―仙台―苫小牧を結んだ運動の構築など、顕彰運動の新たな発展方向について意見を交わしました。
──伊藤千代子〈墓参・碑前祭〉は、来年が20回目の節目となります。今年は、その準備段階と考えています。こころざしの会の体制を強化し、広く働きかけをすすめたいと思います。
──私は、後につづく若い世代のみなさんが伊藤千代子を忘れず、平和憲法を守り、国民本位の政治実現をめざし、生き生きと活動されることを期待します。
こころざし受け継ぎ “暴走政治”ストップの行動を
2014年、伊藤千代子記念行事第一部「墓参・碑前祭」は、天候に恵まれた晴天のもと、湖南南真志野の現地で40名ちかい参加者によって行なわれました。
墓参を済ませたあとの碑前祭では、木島日出夫さん(顕彰碑建立実行委員長)、関勘正さん(千代子こころざしの会会長)のあいさつと、三沢実さん(同会事務局長)の報告がありました。
木島日出夫さんは、「今年は千代子没後85年を迎え、顕彰碑建立17年となりました。伊藤千代子が活動した時代は、国民に本当のことが知らされないまま、侵略戦争に入って行った時代でした。今また、安倍内閣は、閣議決定で集団的自衛権行使に道を開こうとしており、許すわけにはいきません。今は、憲法があり、九条もある。全国と諏訪地方でたたかいの火があります。今日の集会は、伊藤千代子が活動していた時代を思い起こして、二度とふたたび、あの時代に戻させない決意を、固め合う集会にしようではありませんか」と呼びかけました。
関勘正さんは、「大勢の皆さんが参加されてうれしく思います。千代子の葬儀は、普通にお悔やみに行くこともはばかられる時代だった。今の、この時代を大切にしたい」と話されました。
最後に三沢さんは、「伊藤善知さんも参加されています」と紹介し、「17年経って地すべりの影響も出始めた。必要な補修を行なって顕彰碑を守り、交流の場としたい」と、会の考えを報告しました。
諏訪湖を見下ろす高台での墓参・碑前祭は、「ふるさと合唱団」のみなさんと、参加されたみなさんで歌う〈こころざしつつ〉の合唱で閉会しました。
記念行事の第二部「伊藤力司さんの記念講演」は、会場を「こころのひろば」(高島)へ移して行われ、70名ちかい参加者は、千代子のこころざしを今に生かしていこう、と熱心に耳を傾けました。
講演に先立って、栗田勝さん(記念行事副実行委員長)から「夜も眠れないほどの安倍暴走がつづいています。共同通信社サイゴン支局長、パリ支局長として活躍された伊藤さんの、世界を見る目での話に期待しています。今日の話を大勢の人に広げていってほしい」とのあいさつがありました。
茅野市玉川生まれの伊藤さん。〈諏訪郡歌〉を披露したあと、「諏訪ほど良いところは無い」と話し出し、千代子の生きた時代の ”重苦しさ “と、信じる道をたたかい抜いた不屈の生き方を語り、一転、ベトナム戦争の真実、集団的自衛権行使の危険性を、私たちに熱く、鋭く告発されました。
――空腹の時代を知っているのは75歳以上です。「アメリカに守ってもらっている」と考えている若者さえいます。戦争を知らない若い世代に、戦争体験を語り継いでいくことが急務です。戦争のない世界をめざす日本国憲法は、「もう少し賢くなろう」と教えています。
伊藤さんは、――《人は考える葦である》とパスカルが言ったように、弱いけれど、理想を追求することはできる。千代子は、自らを犠牲にして、そのことを私たちに教えてくれたのです――と話を結ばれました。
みんなで歌うコーナーのあと、三沢実さんの「来年の記念行事は、若い力の結集で成功させたい」との力強い提起を以って閉会しました。
本年は、 「伊藤千代子こころざしの会」が15周年
「伊藤千代子顕彰碑建立」17周年 を迎えます。
また、「伊藤千代子没後」85年となります。
「伊藤千代子こころざしの会」では2014年度行事を下記の内容で実施することにしました。多くの皆さんのご参加をお願いします。
2014年9月23日(火曜日:「秋分の日」祝日)千代子命日前日
正午(現地集合)
墓碑前祭(諏訪市湖南 南真志野 龍雲寺霊園)
こころの広場に移動
※この間に昼食「こころのひろば」に用意します。(要申込・実費程度)
午後2時
講演と語る会
記念講演 日本と世界
「今、戦争をする国づくり許さず、憲法を生かす」
講師 伊藤力司さん(元共同通信副論説委員長)
諏訪郡富士見町在住
※世界各国の取材経験豊富です。 略歴はこちら
みんなで歌いましょう
参加費 500円 (講師・会場・資料 等の費用に充てます。)
会場 こころのひろば
〒392-0022
長野県諏訪市高島一丁目21番14号(諏訪市役所 北東側)
電話 0266-54-5610
会場のご案内はこちらからどうぞ (Google Maps)
地図上では「こころの郷」となっていますが「こころのひろば」です。
事務局 〒392-0016 長野県諏訪市豊田文出323-2 三沢実方
1934(昭和9)年 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市玉川)生れ
1953年 諏訪清陵高等学校卒業(56回生)
1958年 東京外国語大学フランス科卒業、
(社)共同通信社に入社。大阪支社、京都支局勤務を経て
1961年から 本社外信部に勤務。
1967~68年 仏政府技術研修生としてAFP通信社などで
ジャーナリズム研修
1969~70年 ベトナム戦争下のサイゴン支局長
1972~75年 パリ支局長として主にベトナム和平会談取材
1975~82年 外信部デスク
1982~83年 初代ハノイ支局長
1983~85年 渉外部長
1985~90年 国際局次長
1990~94年 編集委員室次長兼論説委員副委員長
1994~98年 (株)共同通信社海外リスク情報編集長
1998年~ 諏訪郡富士見高原にUターン。
以後共同通信社、信濃毎日新聞社、
月刊誌「軍縮」などに随時寄稿。
2007年~ 同人ブログ「リベラル21」に参加
2009~11年 諏訪東京理科大学講師
*主な訳書*
・「赤い決闘」 1979年 中央公論社
・「湾岸戦争」 1991年 共同通信社
・「タリバン」 2000年 講談社
・「聖戦」 2002年 講談社
・「アフガン諜報戦争」 2011年 白水社
伊藤力司さんは、60年安保闘争、ベトナム戦争の時代に、共同通信社の中枢にあって、ジャーナリズムを主導しました。とくにべトナム戦争の時代(1960~75)には、サイゴン支局長(1965年)、パリ支局長、和平会談取材、初代ハノイ支局長(1982年)として全面的に関わりました。現役を退いた後、故郷富士見高原にUターン。その後も各方面で活躍。
このたびは集団的自衛権に関わる閣議決定の白紙撤回を求める「地域ぐるみの会」の呼びかけ人の一人となっています。
ベトナム戦争は、1960~75年にわたる北ベトナム・南ベトナム解放戦線と、アメリカ・南ベトナム政府との戦争でした。周辺諸国なども巻き込み、インドシナ戦争ともいわれ、1973年パリでの和平会談で決着しましたが、実質アメリカの敗北でした。この戦争では日本の米軍基地が主要な役割を負っていました。伊藤力司さんはまた、戦前のジャーナリズム研究の第一人者でもあり、治安維持法のこと、そして現在の秘密保護法のことなど、過去と現代を見据えた見地から、わかりやすい話・解明をしていただけると思います。ぜひご傾聴いただけるようご案内します。
記念講演講師伊藤力司さんの経歴について既にチラシ等によってお知らせしてきていますが、ここでは生涯の舞台とした「共同通信社」について、どのような存在であったのか、歴史的に概観してみました。なお、関連して時事通信社にもふれてみました。
日本の代表的通信社。1945年11月創立。日本の国際的通信社としては、1914年「国際通信社」が生まれ、26年改組して日本新聞聯合社となり、さらに36年に日本電報通信社の通信部を合併して同盟通信社となった。これは国策通信社の役割を演じ、敗戦後解散した。これをうけて設立されたのが、共同通信社。社団法人組織で、日本全国の主要新聞社とNHKを加盟社として構成され(社団法人)、民放各社を放送契約会社にもつ。部数に応じて決めることになっていたため、大規模全国紙の負担は重く、競争が激化していた地方紙を利するだけだとの判断を下した朝日、毎日、読売の全国紙3社は52年に脱退したが、57年からは共同通信社の「外信」のみを再び受けるようになっている。 本社を東京に置き、全国都道府県庁所在地に支社局を置いて通信網を整備する一方、国際的には各国の代表的通信社と通信契約を結び、ニュースの自由な国際的交流に寄与している。 なお、社団法人共同通信社が全額出資する株式会社共同通信社が傍系事業を遂行している。
第2次世界大戦後、同盟通信社の解散 (1945年10月)のあとをうけて共同通信社とともに同年11月に設立された通信社。本社東京。当初は専門通信と出版を主な事業としたが、その後ニュース全般に事業を拡大し、共同通信社と競争している。全株社内保有の株式会社組織である。 (以上は、平凡社『世界大百科事典』『國史大辞典』などによっています)
なお、諏訪出身の石川文洋さんは、朝日新聞の報道カメラマンとして活躍しており、伊藤力司さんともども「戦友」というべき関係でこの時代に取り組んでいたことになります。
2013年度の伊藤干代子顕彰行事が、9月23日(干代子の命日の前日)に行われました。この日、諏訪盆地は朝から快晴、諏訪湖や周辺の山々が清々しく見晴らせました。参加者は、墓参のあと顕彰碑に花をたむけ、干代子への想いを新たにしました。
「千代子さは、幸せの薄い人だったと思っていたが、碑も建てていただき、みなさま、訪ねて来られるようになり、感謝しております」―涙ぐみながら、噛みしめるように挨拶される伊藤善知さんの姿に心を動かされました。
そのあと会場を湖南公民館に移し、来年の「伊藤千代子こころざしの会・15周年」に向け、会の継続への体制づくりや、具体的な活動について、自由に意見を出し合いました。このなかで「地元や二葉高校関係者、青年の方々に恒常的に参加していただける組織づくりを目指そう。」という意見が出されました。また、「私が万年会長ということかねぇ・・」という関会長の発言もあって、参加者からは拍手が起きていました。
この日.高齢をおして今年も静岡県から参加された男性は、熱烈なる千代子への思いを吐露されました。自宅の前に「千代子の幟(のぽり)」などを掲げているとのことで、「ぜひ写真を‥」とお願いしました。また、編纂の進む『湖南村史』に伊藤千代子が採り上げられるということも紹介され.話題となりました。
本年は「墓参&語り合い」を行います。
来年 「伊藤千代子こころざしの会」 15周年 になります。
また、没後85年となります。
このため
記念行事を考えていますが皆さんのご意見をこの席で伺いたいと思います。
ぜひ、ご参加ください。
日時 9月23日(月曜日:「秋分の日」祝日)
午前10時 墓参・顕彰碑前 献花、挨拶(諏訪市湖南 龍雲寺霊園)
終了後 語り合い 会場 湖南公民館2階学習室
今年は千代子さんの誕生日(7月21日)に近い日曜祝日としました。
7月15日「日本うたごえ合唱団」が諏訪の地に集結します。指揮者の守屋博之さんは、諏訪の出身。「よみがえれ ふるさと諏訪音楽会」として開催されます。これに連動して計画をしました。遠方の方、宿泊のお手伝いをします。(要事前予約・こころざしの会事務局へ申し込みのほど)
事務局 〒392-0016 長野県諏訪市豊田文出323-2 三澤実方
電話・FAX 0266-53-1224
携帯 090-4004-8015
日時 7月16日(月曜日:「海の日」祝日)
午前11時30分 碑前祭
午後 1時 語る会・こころざしの会総会
語る人 平島佐一 諏訪二葉高校100年誌編集委員長
演題 「二葉高校(諏訪高女)100年と伊藤千代子」
会場 湖並公民館・大広間
出演日時 2012年7月15日(日)午後 2時~4時
会場 下諏訪総合文化センター大ホール
入場料 大人 1,000円
曲目
1. いとしき八ヶ岳によせて・あざみ野歌・琵琶湖周航の歌
あなたが夜明けを告げる子どもたち(ふるさと合唱団)
指揮・伴奏 守屋博之・伊藤ゆかり(ピアノ)
2. 地底の歌(日本のうたごえ合唱団)
※うたごえ運動が生んだ作曲家・荒木榮 没後50周年に寄せて歌う
「地底の歌」は、本来男声合唱ですが、今回は女性も合同で歌います。
指揮・伴奏 小平修三・根本秀夫(アコーディオン)
3. あなたはどこに・アメイジンググレイス(2合唱団の合同)
指揮・伴奏 守屋博之・門万沙子(ピアノ)
※ 「あなたはどこに」は被災者でもある詩人の和合亮一さんが、
ツイッターに書き続けている「詩の礫」に作曲したもので、
全国で爆発的に歌われ始めている。
※「よみがえれふるさと諏訪音楽会~大震災からの再生を御柱の地で歌おう~」(実行委員長毛利正道)は、うたごえ運動をリードしている諏訪出身の守屋博之氏と日本のうたごえ合唱団を諏訪に招きたいという想いから出発し、大震災・原発事故後のわが国のありかたを考える音楽会を企画したものです。
3.11大震災、原発事故に思いを馳せ
千代子碑を訪れる人々との相互交流を願って
晴れ上がったこの日、墓参をそれぞれ済ませ、碑の前で「碑前祭」。忙しい日程の中を木島日出夫顧問が今年も参列してあいさつ。
震災・原発に触れながら今の政治状況と反原発のたたかい等を話されました。
今年のメインは、交流ポストの設置。
小さなものですが一応、布で覆って除幕式。中に来訪者用の資料と感想文用紙・筆記具を入れました。
当「会だより」へ、三重県国賠同盟一行18人の訪問について、加藤さん(菰野市議会議員)紹介により、一文を寄せていただきました。
交流ポストに入っていた名刺の裏に「18人で」とあり、連絡させていただいたものです。
文中に出て来る「馬場県委員長」さん、会の事務局で話題となり、調査の結果、千代子碑建立に際し、お世話になった党中央委員会厚生部副部長=馬場さんと同一人物とわかりました。早速、三重の皆さんにお礼をいたしました。
湖南公民館に会場を移して開いた「語る会」-Iメインは、栗田さんの話。建立前後のエピソードも交えて話され、参加者に感銘を与えました。
また、三沢事務局長が前年からの取り組みと現況を報告し、来年度、こころざしの会の総合的な強化の基本を提起。全員の賛同を得て準備を進めてきています。
顕彰碑を訪れていただく皆さんとの交流が一層深まることを願って、千代子碑の後ろに形を整えポストを設置し、徐幕式を行ないました。
碑に合わせて黒を基調とし、上半分に資料・感想文用紙を入れる棚、下半分を少し大き目ですがポストとしてあります。
感想文などお待ちしています(カンパも歓迎)
資料は自由にお持ち帰りください。
顕彰碑建立から14年、こころざしの会結成から12年となりました。
昨年の9月23日の墓参顕彰碑前蔡墓参と語る会での報告・確認でもありました碑の所への「交流ポスト」の設置準備が進んでおり、9月24日の碑前祭で除幕・おひろめをする予定です。
お誘いあってご参加ください。
日時 2011年9月24日(千代子命日・土曜日)
墓参 午後1時から あいさつ等
碑前蔡 午後1時15分から
あいさつ ・ 交流ポスト除幕 記念撮影
語る会
場所 湖南公民館
語る人 栗田 勝さん 「千代子顕彰運動前史」 など
事務局より 報告・提案:体制・会員・役員・規約改正 などがあります。
歌
諸資料領布
会場でパネル・資料展を行っています
開会=午後3時30分ころ
※ こころざしの会年会費 500円集めさせていただきます。(資料・協力費)
顕彰運動に新たな分野拓いた中村洋子さんを偲んで
ー千代子を詠う土屋文明3首を歌曲化ー
治安維持法で若い命を奪われた伊藤千代子の命日を翌日に控えた23日、恒例の〈伊藤千代子 墓参・顕彰碑前祭と語る会〉(こころざしの会・主催)が諏訪市文化センター集会室においておこなわれました。
断続する風雨の中、千代子の出生地・南真志野に建つ、墓碑と顕彰碑を訪れた人びと(県内外から約20人)は、線香や花を手向け、社会進歩と反戦・平和に身をささげた千代子をしのび、そのこころざしを受け継ぐ決意を新たにしました。
国賠同盟諏訪支部のみなさんには、今年もたくさんの花を持ってきていただきました。
碑前祭では、木島日出夫さんが裁判の現地調査から作業着でかけつけ、「毎年の行事になっているが、続けていくことが重要。この13年間、多くの人の心をとらえている」と挨拶しました。
――今年は、選挙さなかに亡くなられた中村洋子さんを偲ぶ会も兼ねながら、語る会を計画しました。「戦前命をかけてたたかった先輩がいたということは、やがて、世界の平和、アジアとの交流に役立つときがくると確信しています。今日は、いろいろな方の想いを語り合ってほしい」との挨拶(栗田 勝さん)で会は始まりました。
冒頭、こころざしの会・事務局から、千代子顕彰運動に「歌」と「行動」で大きく貢献された故中村洋子さんの足跡が、会場で配られた冊子『中村洋子さん追悼号』(A4判・16P)の内容に沿いながら紹介されました。
つづいてスクリーンに中村さんの生前の姿が映し出されました。今年5月、苫小牧でおこなわれた〈最後の手紙公開5周年のつどい〉で歌う姿です。絶唱となった〈伊藤千代子を歌う三つの歌〉――張りのある歌声が会場を包みました。
挨拶に立った中村さんの妹の大西妙子さんは、「初めて千代子の歌を聞いたのは八重洲でのコンサートでした。土屋文明先生の歌を歌曲として歌おうとした姉の勇気と努力を尊敬しています。後ろに展示されている千代子像は、姉の勧めで描いたものです。先月、両親の眠る江音寺に墓地が決まりました」と話されました。
福田蓉子さんの歌う〈千の風になって〉などの後、会場を埋めた参加者全員で〈こころざしつつ・普及版〉を歌って《中村洋子さんを偲ぶ》コーナーを終了しました。
「こころざしの会10年と、これから」について、三沢事務局長から報告・提案がありました。報告では「運動をどう継承していくか。若い人への伝達が重要」との指摘があり、1.墓参・顕彰碑前祭の継続、2.案内交流ポストと展望案内図の設置、3.各地の運動組織との交流、4.千代子とその時代の研究、5.情報活動の強化、などの方針が示されました。
北海道から参加された畠山さんからは、1.最後の手紙の内容・時代背景の学習、2.小林多喜二の学習、3.運動の市民的発展を目指そう――など、苫小牧の運動の方向が紹介されました。
地元の田中さんからは、諏訪でやるべき運動の課題として、治安維持法から満州「事変」に至った弾圧側の体制を攻勢的に究明したい、との提起がありました。
青年の毛利さんからは「先輩ががんばったおかげで今がある。先人に学ぶことの大切さを実感した。若い世代が黙っていてはいけない」との力強い発言もありました。
会場の市文化センター第3集会室には、パステル画の千代子像や、顕彰碑の丘からの眺望を広角度に納めた写真など、新しい作品を含むパネルが展示され、参加した人びとの注目を集めていました。
伊藤千代子命日の9月24日を中心に、節目節目では大きな行事を組んできましたが、今年は通常年として、毎年続けてきました恒例行事=墓参と碑前蔡、および語る会を、下記のように計画しました。皆さんのご参加をお願いします。
文化センターでの「語る会」のみのご参加も歓迎します。
日時 2010年9月23日(秋分の日・木曜日)
墓参。碑前蔡
場所 現地
時刻 午後1時30分から
内容 挨拶・墓参・献花・碑周辺へのポスト設置の説明等
語る会
場所 諏訪市文化センター第3集会室(前貴賓室・2階)
時刻 開場=午後2時(会場でパネル・資料展を行っています)
開会=午後3時
長野県諏訪市豊田出身で、千代子顕彰運動に「歌」と「行動」で大きく貢献された中村洋子さんは、去る2010年7月11日の参議院選投票日に活動中脳梗塞で倒れ、13日にご逝去されました。
伊藤千代子に心を寄せていただいている皆様にお知らせいたしますとともに、今回、全体プログラムに《中村洋子さんを偲んで》を入れました。(当日は、平服にてお願いします。)
なを、時間は、苫小牧の動画映像を含めて30分くらいの予定です。
※伊藤千代子こころざしの会会員の方、協力者の方
年会費などとして500円お願いします。
事務局 三沢 実
記念講演 講師に 無言館館主 窪島誠一郎さん
2009年9月23日 片倉館にてメイン行事
伊藤千代子没80年を記念する〈つどい〉の準備が、すすめられています。
「伊藤千代子こころざしの会」と「伊藤千代子の会(在京)」の共催によるものです。
その概要(案)をお知らせいたします。
伊藤千代子に心を寄せている全国の皆さん、こんにちは。
今年9月は、千代子が没して80年になります。「記念事業を」との声を受けて検討してまいりましたが、幸いにも上田市の無言館館主=窪島誠一郎さんのご講演をお願いすることができました。
政局は流動化しており、いつ解散・総選挙があってもおかしくない情勢です。未曾有の大不況の中で、雇用破壊・福祉破壊の政治が進む一方で、ソマリア沖への自衛隊の派遣など憲法9条を破壊する動きも際立ってきています。
あの暗黒と戦争に向かう時代に、反戦・平和・社会進歩のたたかいの中で、弾圧によって倒れた伊藤千代子さん。その時代と今を見つめ直す機会として、心に残る「没後80年記念のつどい」にしたいと思います。
皆さんのご参加・ご支援をお願い致します。
2009年4月 伊藤千代子没後80年記念行事 代表 木島日出夫,
◆期日 9月23日(水・祝日)
◆行事
1.午前11時 ◆墓参・碑前式(諏訪市湖南 龍雲寺霊園)
2.午後 1時 ◆記念集会(片倉館 上諏訪駅から徒歩7分 参加費500円)
◇開会セレモニー
(・挨拶 ・組曲〈千代子に捧げる〉・中村洋子さん)
◇記念講演 窪島誠一郎氏(演題=未定)
3.午後5時30分~7時30分
◆参加者交流懇親会(ホテル華乃井 諏訪湖畔)
■オプショナルツアー
9月24日(土屋文明・千代子・藤森成吉ゆかりの地を訪ねる)
《申込み先》 交流会参加/宿泊希望の方は、事務局までご連絡ください。
〒392-0016 諏訪市豊田文出 323-2 三沢 実方
電話・FAX 0266-53-1224 携帯 090-4004-8015
1941年、東京に生れる。信濃デッサン館・無言館館主、作家。
1964年、印刷工、店員、酒場の経営などを経て、東京都世田谷区に小劇場運動の草分
けとなる「キッド・アイラック・アート・ホール」を設立。
1979年、長野県上田市に夭折画家のデッサンを展示する「信濃デッサン館」を開設。
1997年、同館隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開設。
2005年、「無言館」の活動で第53回菊池寛賞を受賞。(その他、受賞3回)
2008年、第2展示館「傷ついた画布のドーム」を開設。
著書には、実父・水上勉との再会を綴った『父への手紙』のほか、『無言館への旅』など多数があります。
創業80年 女工さん達の想いがこもる片倉館――記念集会の会場となる片倉館は、中央自動車道 I.Cから7km、JR中央本線上諏訪駅(西口)から徒歩5分の諏訪湖畔にあります。大浴場を備えた浴場棟と、大広間を備えた会館棟とがあります。
片倉館は、日本の製糸業を代表する片倉財閥の2代目片倉兼太郎によって昭和2年に着工されました。昭和2年といえば、歴史的な山一林組女子労働者の大争議があり、伊藤千代子が東京女子大に編入学した年で、翌年竣工しました。
片倉館建設の大きな目的は、シルク岡谷を支え、富国強兵を資金面から支えた女子労働者の福利厚生にあり、彼女たちは、対岸の平野村(現岡谷市)から船で運ばれて来ました。時代背景には、改正工場法の成立(大正12年)以後、強まった〝女工保護〟の世論と運動がありました。
昭和4年、法人認可を経て営業を開始した片倉館は、今年、〝創業80周年〟と銘打っています。奇しくも千代子の没年と同じです。
2008年10月3日
2008年8月1日付で、諏訪二葉高校の百年史『写真でかたる二葉百年のあゆみ』が発行されました。(A4版346ページ。[30年前には『長野県諏訪二葉高等学校七十年誌』が発行されています])
この中で、伊藤千代子にかかわる事柄が2ページにわたって写真数葉とともに収録されています。
先の『七十年誌』の中でも、平林たい子とともに、その生涯の概要が記されていましたが、『百年のあゆみ』では、この間の千代子研究(事跡の掘り起こし等)の進展による新たな記述となっています。 この中には校長であった土屋文明さんの千代子を詠った三首(自筆)も収録されており、また当然ながら、千代子の先を歩いたともいうべき平林たい子の生涯についても同様スペースで収録されています。
伊藤千代子の項の最後には、『平成17年7月には澤地久枝を迎えて「伊藤千代子生誕100年記念事業」の記念講演会が開かれ、歴史の厚い堆積から千代子が掘り起こされ、光が当てられるようになった。』と結ばれています。
これらのことは、ここ十数年間における伊藤千代子にかかわる全国的な関心の大きさと、顕彰運動などの成果が、この百年誌に反映されたともいえるでしょう。
『二葉百年のあゆみ』は参考文献の中に、東栄蔵著『信州の近代文学』(信濃毎日新聞社)、同『信州異端の近代女性たち』(信濃毎日新聞社)、藤森明著『こころざしいまに生きて-伊藤千代子の生涯とその時代』(学習の友社)、藤田廣登著『時代の証言者-伊藤千代子』(学習の友社)、『今、あたらしき光の中へ-伊藤千代子顕彰碑建立記念誌』(伊藤千代子こころざしの会事務局)などが記録されています。
なお、『二葉百年のあゆみ』の編集部長は平島佐一氏、編集委員は卒業生を主に十七名の方が担当されています。
(同誌は諏訪地方の各図書館に寄贈され貸し出されています。)
2008年伊藤千代子顕彰碑・墓参および「記念講演と語り合う会」が、建碑11周年を記念して、9月21日、湖南(現地・湖南公民館)において行われました。 この日、第一部の碑・墓前時は雨が激しい中でしたが、参加者の思いが伝わったか、第二部・公民館での頃には雨上がりとなりました。
藤田廣登さん、千代子と多喜二を熱く語る
記念講演の講師は藤田廣登さん。下諏訪出身でこれまでにも何度か参加され、特に一昨年、建碑10周年の記念行事の祭には東京から200名余の参加者のリーダーとして活躍されました。今回は千代子地元「こころざしの会」からの要望に応えて、千代子と小林多喜二の同時代性に焦点をあてて、語っていただきました。映像を使っての 時代を先駆け、時代が結んだ二つの青春
という熱のこもった話に、参加者からは「もっと時間をかけて聞きたかった」との声が聞かれました。
会の冒頭、東栄蔵さん、北海道畠山忠弘さんからのメッセージ。関勘正会長、木島日出夫会顧問のあいさつ。福田蓉子さんの歌三曲あり。また講演に対し、フロアーからの共感の感想や問題提起などあり、交流も深めました。
三沢実事務局長が、今年度報告と来年度活動へ向けての報告、課題などについて語りました。
なお、来年は千代子-没80年の記念行事を予定しています。メイン行事=記念講演の講師には、会員の中から希望として窪島誠一郎さんの名が上がっています。また、東京からの行事参加が予告されています。
近々に予定されている総選挙において、四区候補上田ひであき氏も会員として参加し、「伊藤千代子さんが、選挙権もないあの時代に、女性として先頭を切って支援活動に参画したという先駆性は驚きです。時代は違うが『蟹工船』がブームになるという今日、同類の困難があることの反映だと思う。今度こそ新しい時代を切り開こうではありませんか」とあいさつしました。
2008年8月10日 伊藤千代子こころざしの会 今年も、墓参と語る会を、行います。大勢の皆さんのご参加をお願いします。
2008年伊藤千代子顕彰碑・墓参
9月21日(日)午後1時 諏訪市湖南南真志野 伊藤千代子墓地・顕彰碑集合
献花と歌とあいさつ・交流 その後湖南公民館へ移動
2008年記念講演と語り合う会
同日、墓参に続いて 午後2時 諏訪市 湖南公民館 パネル・資料展・語り合う会
2008年記念講演 講師 藤田 廣登さん
下諏訪町生まれ、岡工卒、化学会社・労働者教育協会・学習の友社勤務後労働者教育協会理事 (財)全労連会館常務理事 「伊藤千代子の会」(在京)・事務局
「時代の証言者―伊藤千代子」「治安維持法下の拘禁精神病」「小林多喜二とその盟友たち」など発表
演題
「時代が結んだ青春・・千代子と多喜二・・諏訪・仙台.苫小牧.小樽・・そして東京・・」
今年は今話題の「蟹工船」・・著者小林多喜二と千代子の生き様とかかわり、時の支配者によって実質獄死・虐殺という2人の最後、80年近い年月を経てベストセラーの「蟹工船」から見えてくる現代、当時と現代を検証する講演です。是非お聞きください。
午後2時からの記念講演・語る会だけの参加も歓迎します。
顕彰碑建立後、毎年墓参と語る会を行ってきましたが、
生誕100年事業以後の語る会では、
2005年、伊藤千代子生誕100年・澤地久枝さんの講演をメインに盛大に、4月プレイベントとして群馬県立土屋文明記念文学館で歌人・内田一枝さん、歌手・中村洋子さんのトーク&コンサート。同年命日の墓参と語る会の中で木島日出夫さんの話、この中で「講演を中心にした取り組み」の提言。
2006年は千代子最後の手紙公開の地・苫小牧から石城謙吉北大名誉教授・諏訪市出身、「北海道の地から」
2007年は千代子顕彰碑建立10年、2人区の岡谷下諏訪でトップ当選の毛利栄子県議、「千代この時代と今と」
の講演と交流を行っています。
「伊藤千代子の会」(在京)では、伊藤千代子没後79年集会 を、
今年(2008年)9月23日午後1時30分より東京都文京区の全労連会館で行います。
記念講演は松本善明さんです。
「伊藤千代子こころざしの会」では、「伊藤千代子の会」(在京)とも連絡を取りながら、
諏訪で来年(2009年)に、没後80年の記念行事 を予定しています。
伊藤千代子の略歴 | 小林多喜二の略歴 | ||
---|---|---|---|
1905年 | 諏訪郡湖南村に生まれる | 1903年 | 秋田県下川沿村に生まれる。 |
1914年 | 中洲村中金子、岩波家へ | 1907年 | 一家で、小樽・若竹町へ移住 |
1918年 | 諏訪高等女学校入学。土屋文明赴任 | パン工場で働きながら庁立小樽商業学校へ | |
1922年 | 諏訪高等女学校卒業 高島尋常高等小学校代用教員 |
1921年 | 小樽高等商業学校(現在の国立小樽商科大学)入学 |
1924年 | 仙台尚絅女学校入学 | 1924年 | 北海道拓殖銀行就職 |
1925年 | 東京女子大編入学 | 勤務の傍ら仲間と同人誌「クラルテ」発行、小説を書く クロポトキン・ゴーリキの作品から社会的関心を持ち、深い苦悩の中、勤労大衆の立場へ |
|
1926年 | 大学内社研活動・マルクス主義学習会 | ||
1927年 | 長野県岡谷の山一林組の製糸女工大争議支援 | ||
1928年 | 労農党藤森成吉支援 千代子学費問題 日本共産党入党・中央事務局任務 3・15大弾圧で検挙、獄中闘争 |
1928年 | 「1928年3月15日」執筆 総選挙北海道1区山本懸蔵に取り組む |
1929年 | 浅野晃獄中転向、千代子拒否。 最後の手紙 9月24日 松沢病院で死去・実質獄死 |
1929年 | 「蟹工船」「不在地主」執筆 |
1930年 | 「工場細胞」執筆 | ||
1931年 | 日本共産党入党 | ||
1932年 | 「党生活者」執筆 | ||
1933年 | 築地署特高により逮捕、 即日拷問により死去 |